む位の費用はかかる。
 私ども一行は大阪で食料等を準備し、藩の所有の荷船を特別に仕立ててもらい、それに乗って大阪を発した。安治川《あじがわ》口まで下って、汐合や風を見計って天保山沖へ乗出すのである。安治川を下る時両側の家で、川中へ釣瓶を落して水を汲んだり物を洗ったりする様を珍しく見た。この川の或る場所には幕府の番所があって、ここで船の出入を改める。但し改めるのは商船だけで藩の持船になると検査は受けぬ、ここを通る時には、藩の印のついた幟を立て『松平隠岐守船浮けます』と呼上げて通るのである。かつて怖かった箱根や新居の関などとは違って、たやすいものだと私は思った。それから天保山あたりに泊って、翌日出船した。
 安治川の上下や、伏見までの淀川の上下などを藩主がする場合には、別に立派な船を用いたもので、その船は大阪中ノ島の藩邸の前に繋留所が出来て、それに繋がれてあった。私は隙間から覗いたが、金銀の金具が輝き種々の彩色が鮮かに見え、朱塗黒塗などで頗る見事なものであった。大名同士が互に美を競いかかる船に乗ったもので、太平の贅沢の一つであった。
 この藩の船に乗込んでいる者に船手というは、藩の扶持を貰っていて、常には藩地の三津《みつ》の浜というに妻子と共に住まっている。その下に水主《かこ》というものがある。これは藩地の海岸や島方などから、一定の期限があって、順番に徴発したもので、常には漁業などしていた。私どもの乗った船にも上には船手数人、下には水主が数人居た。それらの煮炊万端はもっぱら水主にやらせるので、船手は坐して命令するだけである。この両者は大変に隔があって、水主は悪くすると船手に虐《いじ》められる。それでもよく辛抱したもので、その状は私も目撃して、水主は可哀そうなものだと思った。
 私どもの乗った船は四百石ぐらいで、帆は七反帆であった。その帆は紺と白とをあえまぜに竪の段ダラ形で、これが藩の船印の一ツになっていた。風がよいと、艫の方で轆轤《ろくろ》でその帆を懸声をして巻上げる。帆が上がり切ると、十分に風を孕んで船が進む様は、実に勇ましかった。追風でない時は、『ひらき帆』といって、帆を多少横向きにして進むが、風が全く横から吹く時は、直行が出来ないから、右に左に方向をかえて、波状線を画いて進んで行く。これをマギレという。右に向いたのが左にかわる時には、船は殆ど直角に向き直る。すると
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