まくせねばならぬ。談判の際大抵豪商とは直接にしないで、番頭を相手に交渉するのであるから、その事なき平素から留守居は時々番頭に贈物をしたり、また酒楼へ連れて行ったりして、機嫌を取るに汲々としていた。因《よっ》て金貸の豪商に対しては、武士の威厳も何も無く、番頭風情に対しても、頭を下げて、腫物にさわるようにしていたのである。かかる次第であるから大阪の豪商は暗に天下の諸大名を眼下に見下だしていた。貸してくれた際には、別に扶持米《ふちまい》を与えあるいはそれを増すこともあった。
 この頃の豪商のおもなる者は、鴻池、住友、平野、鹿島などであった。この中で住友は伊予の別子の銅山を元禄以来開いており、その地は幕府領ではあるが、私の藩が預かっていたから住友と特別の親《したし》みもあった訳だが、それでも金の事となると随分談判に骨が折れた。
 一行はこれよりいよいよ海路を藩地まで行くのである。船は藩の所有で、主としては大阪へ米を積出すに使い、また藩士の往来にも使うものが沢山あった。この外に、昔は海戦に用い、その後は藩主や家老などの重臣の乗用になっている関船《せきぶね》というがあった。この関船は、中に小さな座敷めいたものが出来ていて、その両側に勾欄があり、欄の外側には多くの船頭が立って多くの櫓を操る、その状蜈蚣の如くである。帆も懸けることは懸けるが、船の運びが櫓でするように出来ているから、帆の力は荷船のようにはかどらぬ。藩主が乗る時には、幟、吹流しを立て、船の出入りには太鼓を打った。
 荷船は荷を積むのがおもで、その一の胴の間というに我々一行の如きが乗るのであるから、頭を高くあげるとつかえる。櫓は舳先や艫《とも》に三、四挺あるが、櫓で運ぶという事は、よくよく順潮の時に少しやるだけで、もっぱら帆によって行く事になっている。関船もそうだが、荷船に至っては一層、風の悪い時は航海を休む。そういう際は陸の川止のような工合で、或る港で長く滞留せねばならぬ。船中では、一行の食料は、いずれも自分で弁じて積込んでいる。米はカマスで沢山用意し、干物類のようなものを数々用意し、ちょっとした鍋|俎板《まないた》庖丁膳椀皿なども用意しているので、少しも人の世話にならずに食事をするのであるが、飯だけは、船に附いている竈で、家来に焚《たか》せる。だから川止めで宿銭をドシドシ取られるような苦痛は無いが長くなると食料を買込
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