、以前は廿五番地であった。この廿五番地は内藤何の守とかいった旧旗下の邸で、私の借宅した大屋さんが、その内藤家である。が同じ内藤でも大名華族のを始めとして、この内藤家も甲州出で、有名な武田の四天王内藤駿河守の子孫が徳川家へ仕えた後裔である。そして私の内藤は早くより、丹波国に住んでいて小さな領地を持っていたが、織田信長の手の明智光秀が丹波へ攻込む時打ち負けて、その後は宇野姓を名乗って、越中守宗音入道と称して潜んでいたらしい、その人の自ら署名した略系図は今も存在している。それから越中守の子は瀬兵衛頼有といって幕府の二条城の与力を勤めて、その子の与左衛門頼綱というが久松家の先祖で徳川家康公とは異父同母の弟たる松平隠岐守定勝公に桑名で仕える事になった。そして松山へ転封さるる時随行して、それから長く松山藩士となっていたのである。そんな続き合いなども大屋さんの、内藤家の老人と会った時には話し合った事もある。ついでにいうが、今いった私の家の系図だが、それは本系図のある傍らに略譜として認められたものであるから、右の宇野越中守以前の十五代は近くて誰れも知っていると思ったが総て名さえも記されていない。そして本系図は或る時代に紛失してしまった。この事は私の祖父が熱心に調べたのだけれども分らないで、今日に至っている。尤も丹波の隣国の丹後は細川幽斎の領分であったためか、内藤家の遺族が熊本藩にも幾人か仕えているらしい。そこで私が最近史談会の幹事を同じく勤めている関係から、熊本人の北野直壮氏に調べてもらったが、熊本の内藤諸家もその勤仕以後の人の姓名は知れているが、その以前の系図は伝わらぬという事である。唯私がこの頃国民新聞の徳富蘇峰氏が書かれたる日本国民史を見た時、織田が丹波に攻め込んだ際城を取られた者に内藤忠行というがある。これが恐らく私の家の先祖であろう。そして多くの家には通り字というがあって代々名の一字はそれを用ゆる事になっているが、私の内藤は必ずしもそんな事もせずにいて、古い時代の通り字さえ判らない、しかるに、前にもいった私が、明治五年に実印を失うと共に改名した、それは中庸の文字から素行とつけたのであるが、偶然にも先祖たる忠行の行の字を取った事になるのも不思議である。それから私の男子は、孰れも行の字を付けさせているがこれも先祖の霊の御引合せであろうか。
 今一つついでにいうが、今いった先祖
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