を少し取り除けたというような事もした。
 この寄宿舎を改築の際から、今までは、寄宿生中より抜擢して命じた舎監を特に他の同郷の壮年者に嘱托する事になって、そこで肉弾の著者で名を知られた、桜井|忠温《ただよし》氏、続いて陸軍中で才物の清水喜重氏が舎監となった、が、寄宿舎の学生も最初の頃と違って、真面目に勉強する者が少くなって、どうかすると学問より、父兄から貰う学資を酒代その他に費う者も出来たし、その上年々郷里の松山の中学校を卒業して、出京の上高等学校やその他の専門学校へ入学しようとする者が、一度や二度は、その試験に落第する、その落第者、即ち失望者が寄宿舎へ、転がり込んでいるのだから、いよいよザワザワして真面目に勉強する者が少くなった。それと共に少数の先輩や真面目に学問する者は多数者に圧迫されて逃げ出る者も段々と出来た。また改築以前は二十人ばかりを収容するに過ぎなかったのが、改築後間数も多くなったので、倍数の人数となって、その比例的にガヤガヤ生も多くなったのである。私は一体理論をするには長じているが、これに反して実務を弁じたり、多くの若い者を鞭撻したり、指導したりする事は短所である。そんな事から、私も理窟的には、いって聞かせて、多少矯正を計ろうとしたが、面と対してこそ反抗もせなけれ、陰ではやはり怠けている、夜分は酒を飲んで帰って大声を発する。そんな事が、久松家やその他の同郷人へ聞えると、凡てが私の監督の不行届といわれる、そんな事で私も監督で居る事が、もう厭になった。そして物価もその頃はさほど高くなかったから、いっそ監督をやめてもっぱら俳句の選者位で生活する方が気楽でよかろうと思ったので、その意を告げて、これもちょっとは許されなかったが、終に明治四十年の歳末頃に願いの如く責任を卸して、後の監督は、同郷の秋山好古氏がその時はまだ中将で騎兵監をしていた、それに譲った。そして舎監は法学士の船田一雄氏が少しその以前から嘱托されていたのである。そこで私は監督をやめると共に他に移住せねばならぬ事になったから段々諸方を探した末、やはり寄宿舎の近所の弓町一丁目へ小さいながら家屋を見付けて、そこへ住む事になった。これ以前私は未だ官吏生活をしていた頃、一時松山へ帰していた妻子を再び東京へ引取るために、神田三崎町の下宿から本郷へ借宅して住んだ。それが、あたかも同じ弓町一丁目で、今度は廿八番地だが
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