軍が占領したので、山本旅団長は副官を従えて砲台を見聞した。惟行も好事心から一緒に行ったが、前面の敵から狙撃されて、山本氏は弾に当って即死した。惟行も戎服の裾に弾が通ったが幸に怪我はせなかった。その後旅順方面で彼の穴籠りなどもして、砲丸の下に往来した末が、旅順の陥ると共にまた奉天から鉄嶺を越して、何とかいった地方までも従軍した。この通訳官は中途から辞職して帰った者も多かったが、忰は幾らか辛抱強いので、一度かなりな大病をしたのも押して務めて終に、出征軍の凱旋と共に帰朝した。一体惟行は私とは違って学問などするよりも、何か金儲けでもして成り立とうという野心を持っていたので、支那の在陣中も機会があれば、支那の有力者などとも交っていたのであるが、この凱旋して間もなく正金銀行に採用されて支那の支店へ行く事になった。そこで北京に居るのだから、支那人との交際も多くなり、一層支那語の研究もする事が出来た。そして支店長の実相寺氏等にもかなり愛されていたので、なおよい機会があらば何か一つの仕事を見付ようとしていたのであるに、支那人との交際には食卓を囲んで互に一つ器の食物を匙で喰い合うような事から、終に肺病の黴菌を貰った。尤我慢な奴であったから、なりたけ寝る事もせなかったが、終に勤務も苦しくなり、先輩からも忠告さるるので帰朝して、家庭で養生する事になった。けれども少しよいと、いかに止めても酒を飲む、外出しては何か割の好い仕事を求めようとする、そんな事で一時はいくらか回復しかけたのも、終に手戻りがして、卅九年の歳末には赤十字病院へ入る事になった。そして翌年の四月の桜の盛り頃に三十歳を一期として志を齎して黄泉に赴いた。私は前にもいった如く、明治廿年に三歳の楽女を実扶的利《ジフテリア》で失った。その頃はまだ哲学的の悟りも出来なかったので、なんだか非常に可哀そうで、悲しみが長く続いて、三ヶ月ほどは何物を見ても興味を惹かぬ位であった。しかるに、この惟行を失った時は、多少前途の望みもあった奴だけに、私は一層悲哀に沈みそうなものであったが、もうこの時は哲学的悟りがかなり出来ていたから、結局死という事は人間のあらゆる煩悶苦痛を免るる事なので惟行の如く早く世を去るのは、つまり厄介な人間生活の年明けである、息を引取るまでこそ志の遂げざる事を口惜くも思うが、死んでしまえば空々寂々で、楽しみのない替りに悲しみもない
前へ 次へ
全199ページ中182ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
内藤 鳴雪 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング