行するのが面倒、否むしろ嫌いで、機会は随分あったけれども力《つと》めてそれを避けた。そこで明治十三年出京して以来、わが郷里の松山さえも、前にもいった如く廿二年と廿六年と両度行っただけである。しかるに、明治卅六年において長男の健行が前年を以て農科大学の乙科獣医科を卒業しこの年は宮崎県の農学校に採用されて赴任する事になったので、私もそれと同伴して松山に赴いた。その要件は主として松山の二番町に未だ小さく家屋と土地とを所有していたのを、段々と溜る負債償却のために売却する用向であった。この事は兼て妻の里方の春日寛栗に托して置いたので、松山へ行くと共に同家へ寄寓した。健行も附いて来て一両日逗留したが、これは宮崎へ赴いた。この時は私が俳句を始めてからの二度目の帰郷であったので、旧知の人々の外俳人仲間からも歓迎されて、句会に臨んだ事もある。そして村上霽月氏の如きは、この地の先輩で久しく交っていたから、その頭取として管理されていた農業銀行の別室で饗応を受け、また俳談もした。が、この頃は新聞や雑誌の俳事の関係も段々と多くなっていたので長く旅行する事が出来ないので、松山は僅か三日ばかりの滞留で急いで帰京した。そこでこの往途大阪にもちょっと立寄ったが、それは内国博覧会が盛んに開かれているという事を聞いたのでそれを見物する事と、その他は久しぶりで、松瀬青々氏や青木月斗氏や水落露石氏を訪うためであった。この博覧会に始めて電燈のイルミネーションを見たのである。こんな事は東京よりも大阪の方が先鞭をつけていた。また帰途には郷里の親友の由井清と、伊藤奚疑の二氏が送りかたがた京都見物をするといって、附いて来たので、京都へ廻って月並ながら例の祇園、清水、知恩院、大仏などへ行って、南禅寺の門前の瓢亭で共に酒を飲んだ、この時に京都で始めて電車に乗った。これも東京よりは先鞭をつけていたのである。
翌卅七年は誰れも知る日露戦争が起って、我々どもの気分もなんだか緊張したのであったが、二男惟行は外国語学校の支那語を学んでちょうど卒業するのであったので、支那方面へ兵を出す必要上から、陸軍省が文部省へ掛合って少し早く支那語の学生を卒業させてもらいたいとあって、惟行も学校を出るや否、陸軍の通訳官となって従軍した。そして少将の山本信行氏が率いた旅団司令部附となったので、金州から上陸して旅順方面へ行った。間もなく海鼠砲台を我
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