哀悼を表する傍ら、その作品を集めたものが即ち古白遺稿である。
 それから新海非風氏だが、これは家庭の境遇から余り学問はしていなかったが、天才的で俳句を作る才は時々子規氏をも驚ろかした。いわゆるせり吟にも多く作って多くの佳句を見せていた。そうしてこの人も古白氏と共に軟派文士肌で別に資力もない癖に吉原通いをして或る妓と馴染を重ねたが、間もなくその妓が年明けとなって、身を任そうと思う男が二人あったそうだが、終に非風氏の方へ籤《くじ》が落ちて、その後は同棲することになった。この妓の家元は江州人で、普通なら年明きの娘も資力のある婿を持たせたいというのだが、最初余義なき金策に、娘を苦界に沈めたことを哀れむと共に、娘の好む婿ならばといって、その資力の有無を問うような貪欲心はなかった。それで、非風氏もなるべく努力して一家を立てて、函館の新聞記者なども勤めることになったが、早くより肺病に罹っていたので、後には細君の実家近くの京都辺りへも流寓して、終に病死した。そうして、あべこべに舅の家から多少の救助を受けた位のことであったろうと思う。私どもは非風氏が一時東京の小石川に家を持っていた頃、子規氏や古白氏などとそこでも句会を開いた事があったが、その後地を隔つると共に非風氏とはただ消息ばかりを知るのみになってしまった。
 五百木飄亭氏は最初大阪で医者の試験に及第したが、未だ丁年に満たないので、医者と称することも出来ず、それから上京して私の寄宿舎へ入ったのだが、年齢よりは老成していたために、推薦せられて舎監にもなった。そうして読書の才もあって、俳句がうまかったのみならず随分漢籍をも読んで、私が未だ読まぬ書を読んでいたのに驚かされた事もあった。その後日本新聞社へ子規氏の後から入って、筆を執っているうち、徴兵の乙種であったので日清戦争に従軍した。尤も医学の素養があるため看護卒となって、戦地の報告を日本新聞へ掲載して異彩を放ったことは前にもいった通りである。凱旋後も長くこの新聞に従事していて、その後は医界時報を田中義之氏と共に経営していたが、終にそれを田中氏のみに任せ今ではいわゆる高等浪人となって朝鮮合併や支那事件などにも野にあって努力していることは誰も知る通りである。
 また勝田明庵氏は他に較べては余りに俳句に熱心でなかったが、それだけ政治や経済の方面には早くより研究をして、寄宿生中でも他の者は暑
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