、帰阪して後大阪朝日新聞社に入って、今も同社の俳句欄を担任している。この外大阪では水落露石氏、青木|月斗《げっと》氏なども名を出した。尤も露石氏は先年亡って、月斗氏は今も同人雑誌の主筆並に経営者となっている。また石井|露月《ろげつ》氏は、元々医者になる目的で、その学費を弁ずるために日本新聞社に入っていたのであるから、その後開業免許を得ると直に郷里の秋田県へ帰って、女米木《めめき》の山中で医業を開いて、今日に至っているがその後一度も東京へ出て来ないで、地方の百姓を相手に閑居して、この患者を療養するをこの上もない楽みとしている、けれども絶えず読むものは読んでいると見えて、東京その他の俳事の状況や変遷はよく知っていて、その句作も旧によって健実である。またこの人に次いで秋田地方では、島田五工氏なども、子規氏の俳風に同化して、俳星という雑誌まで出していたが、この頃は心機一転したものか、それを出す事もやめてしまった。
[#改ページ]
十九
今の如く青々氏や露月氏の事をいったついでだから、なお遡って、子規氏と共に俳句を作り始めた古い人々のこともいって見よう。その頃最も才気があって、現代の文芸主義にも早くより通暁していた者では藤野古白氏がある。氏は子規氏の従弟で、早稲田の学校では後に有名になった島村抱月氏と同級であったのだが、夙《はや》くより個性とか自我とかいうような意味で文芸を扱うことに気が付いて、それを俳句にも応用した様子が見える。そうしてその頃或る家の女子を思い初めて、それが他に嫁したという失恋から、一時狂的の行為もあったが、再び心を静めて専門に文学を研究して坪内逍遥氏などにも愛せられていたのであるが、余りに抱負が高尚で卒業の論文を書いても書いても意に満たないで、卒業はさせられたものの、また再びふらふらとした気分になった。その時出来たのが「築き島の由来」とかいう劇の脚本で、青年松王が自ら求めて人柱になるという、それを自分にも実行したのが彼のピストルの自殺である。氏の湯島の寓所は私の宅と接近していたから、知らせと共に駈け付けて大学病院へ入れた後、父の漸氏が出京するまでは私は昼夜附添っていた。この看護には碧梧桐氏や虚子氏も加わったのである。しかし二発の弾の一つが脳の中枢を破ったのであるからあえなく落命した。子規氏は病床に居て、見舞う事は出来なかったが、従弟でもあるから
前へ
次へ
全199ページ中173ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
内藤 鳴雪 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング