治の方に親しみと便利を感じて遂に移庁するに至ったものらしい。そうしてこの暗殺の嫌疑者として、同郷人の服部嘉陳氏、錦織義弘氏が主として東京へ拘引され、なお従弟の小林信近や親友の由井清氏藤野漸氏相田義和氏なども連類として拘引された。しかし事実がないのでその後いずれも放免される事になった。
 この頃の石鐵県には県令はなくて、参事に土州人の本山茂任氏が居た。権参事は大洲人の児玉某氏が命ぜられたけれども赴任せずに終った。間もなく、政府は小さい県を合併せらるる事となって、我が伊予の国も、石鐵県と神山県と二ツに分かれていたのを合して愛媛県とせられた。そこで宇和島吉田大洲新谷松山今治小松西条の旧八藩と宇摩《うま》郡の旧幕領とが一ツ管轄に帰したのであるが、相変らず県令は置かれないで、参事として長州人江木康直氏が赴任した。権参事には、大久保某というが命ぜられた。而して県庁も再び松山に移った。私はこの変革があっても学区取締をそのまま勤めて、相変らず面倒な小学校の設置や児童の就学を勧誘していた。
 右は明治六年の事だが、この九月に東京に居る父が大病に罹って危篤だという知らせがあった。そこで私は驚いて、県庁に願って東京へ赴くこととした。或る汽船便で神戸まで達して西村旅館に着いて見ると、昨日この置手紙をして愛媛県の方へ下られた人があるという。見ると弟の大之丞の筆で、父はもう廿二日に死去してその遺髪を持って帰郷する、定めてこの宿に立寄るであろうから知らすというのであった。私はこの手紙を得て落胆するし、号泣もしたが、この上は東京へ行く必要もないので、そのまま汽船便で帰郷した。帰ると一家は皆悲嘆に暮れている。父の病は脚気衝心であった。父は江戸以来この症に罹る癖がある、その上老年にも及んだので終に回復を遂げなかったのであるらしい。行年五十歳。しかし平素の主義として、君家のためにわざわざ東京へ上ってこの病のために斃れたという事は死しても満足した事であったろう。それから松山の代々菩提所としている、正宗寺へ遺髪を葬った。これらの費用や私の上京の途中の費用等に費した金がほぼ五十円位であったが、父は現今の私と同様に蓄財などという事はちっとも出来なかった。それでかつて藩政の末に士族に郷居を奨励するためそれを願うものには藩庁から五十円を給与するという事になっていて、私の内でも、早晩郷居する事に極めて五十円貰った。そ
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