換が出来るから、平常藩内での売買は士民共に紙幣で済ませて、何らの不便も感ぜなかったのである。今でいえばその紙幣は彼の日本銀行紙幣も同じようなものであったのだ。そうして兌換の準備の金銭といった処で、年々する旅行とか、貨物買入とかもほぼ極りがあったから、それだけを見込んでお掛屋に備えて置けば、藩内の理財上には何らの支障もなかった。これは後の話しだが、藩を廃して県となった際に、この藩々の紙幣は悉皆朝廷より正貨と引換えられた。その引換えの率は藩々の市価に依るものとせられたが、松山藩の紙幣は、六貫文の百匁が、五貫文の割合であったから、所持している市民も余りに、損をさせなかった。聞く所では、従来財政の困難であった藩や、就中維新前後に多くの藩費を要した藩は、準備金のない紙幣を濫発して、その結果廃藩の頃は非常に低下して、半分以下十分一にもなっていた処があったようだ、そこへ行くと私の藩はかつてもいった、桑名楽翁公の甥に当る定通公が藩の文武を奨励せられ、就中財政に意を致されたために、その後数代を経てもこの遺法を遵守していたから、維新前後に藩費の増大し、殊に、十五万両の献金をさえ命ぜられたにかかわらず、右の如く紙幣と正貨との差が僅かで済んだのは士民の幸福であった。しかし前にもいった昨年の大改革で、平均禄をしたのは随分思い切った処置で、この事は一般の士族に大いなる迷惑をさせたのである。聞けば、他の藩々では幾等かに分って禄制を定めた所が多い。就中薩州とか長州とか、その他重なる勤王藩では、少しも禄制を変じていなかったそうだ。それもそのはず、朝廷では外国に対する国力を養うには、是非とも封建を改めて郡県にせねばならぬという、内々の評議で、それが漏れていたから、藩限りに士族を困らせるような改革はせなかったのである。しかるに、私どもは少しもこれら内議を知らず、まだ藩は永く存置せらるるものと信じ、その藩力を養うためには、士族の禄を減少し、文武の諸政を振興するのが、かつて朝敵となった恥辱を雪ぎ、また時世に応ずる朝廷への報効だと思っていたのである。
いよいよ四年の七月に朝廷から廃藩置県という御沙汰があった。そこでわれわれは喫驚して、右等改革もその効果を見ることの出来ぬのを遺憾としたが、元来われわれには例の開化主義であるから、日本の国勢においては、廃藩置県は適当であると思って、この上は自分らの企画が無駄にな
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