漸々と聞えていたので、これらの弁解や挨拶として使者を立てるという口実であったのだ。けれども実は彼の攻め来るのをいささか緩和する方便であったことは勿論だ。これはモウ頼みにならぬ幕府を戴く孤立の藩としてはやむをえぬ状態であったのだ。が、この使者一件は藩主の方で主として決定せられたものであるから、世子は後で段々聞かれたものであるように思われる。
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一〇
翌慶応三年正月、長州の使者として林半七が来たので、我藩では、三津浜に迎えて応接した。その使命は、第一に俘虜の交換、第二に我藩の向背を尋ねるというのであった。俘虜というと仰山だが、前年大島討入の際、彼の士分一名を捕え帰った。また我藩では世子の小姓の菅沼忠三郎というが内命を佩《お》びて九州方面へ使者に行ったのを、馬関海峡で長州巡邏船で捕えた。そこでこの両人を交換するのであるが、それよりも主なる問題は、前年我藩から内使を以て大島討入の際、民家を焼いた事の挨拶、裏面には彼の復讐兵を向けるのを緩和するためであった、それを彼からも看破して、それだけでは了解が出来ぬから表向き使者を立てよといい、而してその意は長州の主義を賛成して協同するか否を問うのであった。そこで我藩では一時|遁《のが》れの方便が、遂に本気の明答をせねばならぬ事になったので、藩庁でも内々騒ぎ出した。そしてそれが外間へも漏れたので、いよいよ紛議が甚しくなった、殊に世子は右の長州への内使一件は後に聞かれたのであったから、例の気性として頗る不満に思われ、その側附の人々も共に憤慨した。それが更に、内外相応じて、一の党派となり、長州の使者を刎首して手切をするがよいと主張する者さえ出来た。が、また一方には最初内使を立てた当局者を始め、他の外間の者も、藩の危難を慮りかく幕府の権威の墜ちた上は、我藩もなるべく隠忍持重して時節を待つ外はない、それには長州の使者に対しても温和的に談判をするがよいと主張した。そこで藩中において初めて両党派が出来た。而して一方からは自ら正義党と称し、他を因循党と罵り、また一方からはその正義党を過激党と呼んだ。けれどもあまりに無謀な挙に出ることだけは出来ぬという事に誰も落ち合い、長州の使者に対してはいずれ当方より使者を以て明答をするという事にしてそれを引取らせる事になった。それからこの問題はなかなか重大であるから、藩限りには決せられぬと
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