ったので、後では笑いになった。
 既に休兵の命はあったけれど、長州の態度は少しも判らぬから、何時攻めて来るかも知れぬので、軍備は調べて置かねばならぬ。ある日世子は二の丸から本丸へかけての櫓々の武器の検査された。その際天守閣に登られて、私もお供して初めてこの天主閣の眺望をしたのである。最上層には遠祖の菅原道真即ち天満宮が祀ってある。その他にも武器などが置かれてあったが、この天主閣の下は石造の穴蔵のような物になっていた。外へ出るには鉄の閂《かんぬき》があって、外から鉄の閂に錠が下してある。ちょっと見れば外からでなければ入れぬようであるが、別に下層の間に或る押入の唐紙を明けると、そこの板敷は一つ一つ刎ね板になっていて、長い梯子があって右の穴蔵へ下れることになっていた。世子と共に私も下りて見たが、上下周囲凡て石造で暗黒な上に身も冷や冷やする。ここは終に落城という時に、君公や近習等の者が自殺するために設けられたもので、上の天主閣へ火を縦てば、それが焼け落ちて総ての死骸が灰となってしまう。それを敵から邪魔をしようと思っても、鉄の扉だからなかなか明かない。また外から閂があるから最初はまさかこの内に人がいようとは思わないのである。私はここへ下りた時に、幕府その他の不振な事を考えて、早晩長州勢に攻め込まれて、彼は熟練した多数兵、我は熟練せぬ少数兵であるから、とても防禦は仕終《しお》おせない。そうして世子の気性としては、浜田藩主や小倉藩主の如く他へ落ち行くということは承知せられないから、仮令《たとい》藩主だけは、いたわって落し参らせるとしても、世子や近習の者は本丸を守って、終にはここで一同枕を並べて死なねばならぬと思うと、今から何だか変な気になったことである。しかるに後から知ってみれば、長州は薩州と聯合の約が出来て、今度は反対に幕布[#「幕布」はママ]討伐の密計が進行していたのだから、我藩等の如きにはさほど復讐戦をする考えはなかったのである。しかのみならず、この頃我藩からも一時の権略として、或る使者を長州へ遣わしていた。これは大島郡討入の際上陸した幕府兵は散々民家に向って乱暴をした。我藩の如きも乱暴はしなかったが、陣地の防衛のために、幾らかの民家を焼いたことがある。それを大島郡の人民は非常に恨み、かつ幕兵と我兵との区別を知らぬから、総ての乱暴を我藩でしたのだと思っている。そんなことが、
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