。あるいはブランコに乗れば一とふりでモウ胸が悪くなる。現今の汽車でもレールが悪くて半日以上も乗っているものなら、モウ食気がなくなる。一体動揺するものに乗ることが私の体には適せぬのだ。そうして左右動は、まだよいが、上下動になると最も困るのだ。そこでブランコと船とが就中閉口せざるを得ぬことになる。けれどもこの船嫌いも、航海をする一回は一回ごとに嫌いになったので、この世子の随行は最初から七回目であったから、今日ほどは弱らなかった。そこで一日だけは世子の側で、勤務もすることが出来たが、少し風波が強くなったので、翌日からは終に引籠った。同僚の日々勤務するに対してなんだか気の毒ではあったが、終に寝たままで幾日か経て藩地の三津浜へ着いた。この海路でまず伊予国の岩城島《いわぎしま》へ着くと、これから城下まで十八里であるが、モウ松山領内に属するから、なんだか勇ましい心地がする。しかのみならず、今でいえば御馳走船とでもいうべきあまたの小船を、岩城島その他の島から出し、それを漕ぎ連らねて世子の船の案内をする。尤もこれは附近に花栗の瀬戸という難所があるから、そのためもあるのだ。そうして、そこらあたりの島で篝を焚く。ほのかに島人なども浜辺に集うて居るのが見える。これに対する快味は今日の人では判るまい。なお岩城島の山頂で世子の船が見えたというと、狼煙《のろし》を揚げる。それから主なる島々が受継いで、三津浜の向うの興居島《ごごしま》に達する。この狼煙に因って、それぞれ出迎え等の準備をするのである。世子が三津浜に着すると、船番所というがあってその座敷で休息する。そこへ家老一同が城下から来て拝謁する。それから行列を調えて城下へ入り込むのである。が、この頃は多事の世の中にもなっていたから、行列などは多少省略されていた。供に附く者なども昔の如き服装をせずむしろ陣中だという様子にしていた。
松山城は、本丸と二の丸と三の丸というがある。かつてもいった、加藤嘉明がこの城を築いて本丸やその周園の[#「周園の」はママ]櫓等が出来た頃に、会津へ転封されて、その後を蒲生家が貰ったので、まだ出来てない二の丸を造った。この蒲生家も暫時で亡《ほろ》びて、その後を松平隠岐守即今日の久松伯爵家が貰ったので、更に三の丸を造られた。そうして藩主は常にこの三の丸に住居せられたから、世子はいつも二の丸住居となっていた。
この二の丸
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