乗といって、通称の外に元服後はなくてはならぬものであった。この方は実母の里交野から実母の姉が中島というへ嫁していた、その夫の隼太というのが明教館の助教で、私も時々教えを受けていた関係もあるから、つけてくれたのである。師克とは、父の実名が同人で易の同人卦からとったので、同じ卦の大師克相遇という爻の詞を採ったということであった。
元服をすると、最初若い者の仲間に遇えば『お似合お似合』といって額を打たれるのが習慣になっていたが、私は明教館でもまず学問の方では或る造詣をしていたし、撃剣場などでも、父の役目に封して多少憚られていたから、幸に額の痛いほど打たれたことはなかった。しかし自分には変った顔となったのが恥かしかった。この際衣服の袖の八ツ口を全く止めて総てが大人振って見えるようになるのだ。
元服と同時に撃剣の師匠橋本先生から切組格という段式を貰った。かように大人中間に入ったので明教館の漢学はいよいよ励まねばならず、また由井、錦織、籾山などの学事の交際や、郊外散歩なども相変らずしていた。しかるに私は経書や歴史などの研究は誰よりも優れていたにかかわらず、詩を作ることは全然知らなかった。かつて武知先生の塾へ手習に行っていた時、『ちと詩も作ったらよかろう、それには幼学便覧などを見るがよい。』といわれたので、その本を父に買ってもらったが、どうも面白くないので、そのままになっていたのである。しかるに他の朋友は少しは詩も出来るから、詩の話になれば、私は沈黙しなければならぬのであった。それが口惜しいので、ある日由井と二人で城西江戸山あたりを散歩した時、由井に詩はどうして作るかと問うて、そこで絶句とか律詩とか、平仄押韻などの事を知り、それからは時々自分でも作って見た。尤も多くの初学者はまず幼学便覧などにある二字三字の熟語を上下にはめて、それで五言七言の詩を作るのであるが、私はそんな既成の語を綴り合しては自分の手柄にならぬと思い、何か一つ自分のいって見たいと思う事を、字の平仄を調べた上で、自分限りの修辞を以て作ることにした。勿論漢籍は随分読んでいたので、漢語の使用はかなり出来るけれども、詩の修辞は別段なものであるから、他の詩に熟達した人から見れば、字数だけは五言や七言にはなっていても、全く詩とはならなかったのである。でも自分だけは自惚《うぬぼれ》て満足していた。
当時は世間の志士などが
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