談することもあって、私もわからぬながらそれを病床で傍聴したこともあった。その内父もいよいよ快癒して帰藩の旅をしてもよいということになり、私も勿論快復したので、そこでかつて京都留守居を引上る時に用いた高瀬舟をまた雇切って、伏見へ下り、伏見からは例の三十石の昼舟で大阪へ下ったのであった。西崎医は伏見まで送って来た。浅井の叔父はやはり船も同行したように記憶している。
大阪からの船は、折から藩の大きな荷船の来ているのが無かったので、別に早船を藩から雇ってそれに乗せられた。この船にも小さな屋根があって、父その他の数人もその下に寝ることは出来た。一体小形で、帆も上げるが主としては櫓を用いた。この櫓は随分早いものであった。これは大阪で雇入れたので、船頭もやはりその船に属した者ばかりである。藩の船手は一人だけ乗組んでいた。前にもいった如く藩の船なら船手も数人いて、藩地の浦々で徴発するかこ[#「かこ」に傍点]に向っては頗る威張ったものであるが、この商船となると自分一人であるので、隅に小さくなっていて何事も差図などはせない、全くお客様という顔をしていたのは、誰もひそかに笑った。
この航路は天気もよく、存外早かったが、ある港で潮待をしていた時、近所に碇泊している或る船の中で味噌汁に菜葉を入れたのを喰っていたのが、私は何だか羨ましくなり直様《すぐさま》家来に命じ同じ味噌汁を作らせた。こんな船でもやはり米その他菜の材料などは父の手元で積込で三度の食事を弁ずるのであった。尤も大阪で藩邸の者がいわずともそれぞれ実際の支弁はしたものである。
三津浜へ着くと、親族知己が出迎えに出て、例の如く行列を立て親子駕をならべて松山の邸へ戻った。門には僕が迎え内玄関には二人の祖母や、継母、弟などが待っていて、皆快復して帰ったことを喜び迎えた。就中継母は涙もろい方であったから、父や私が病後の衰弱した様を見ると、悲しさや嬉しさで、私を撫でながら涙を落したことを覚えている。
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八
私はもう十七歳になっていたけれど、父の不在のために元服していなかったから、体が全く快復すると共に元服をした。それには昔は烏帽子親ともいった如く、最初の剃刀をあてるものは特に目上の人を選ぶ例であったから、父の実父たる菱田の祖父がそれをしてくれた。同時に助之進という通称の外に師克という実名をつけた。これはその頃名
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