し悪ければ十日も二十日も日数が掛るのであった。そして百里以上の海陸を経ることである故、旅慣れぬ私は、何だか心細い感じがした、尤も一僕は召連れる事になっていたので、継母の里方春日に久しく出入していた男を特に雇入れた、現に家で使っている僕はまだ若年だからであった。
 こんな私事に属する旅行でも、藩用の船便がある時は、願った上でそれに乗せてもらう事も出来、それなれば同行者も多く、心丈夫なのであるが、折節その便船はなかった。父が重態であるから、何でもかでも、一刻も早く出発せねばならぬのに、大阪へ向けて公私の船を出す三津浜には、差当って大阪へ赴くべき船便は私用のものさえもなかった。そこで、大阪と讃岐《さぬき》の間を往来する金比羅参詣の船へ乗るが好いというので、それへ乗ることにしたが、その船の出る讃岐の丸亀までは三十里近くの陸を行かなければならない。しかしいよいよその陸路に向って発足する事になった。折悪く私は風邪に罹って少し熱があったが、そのために躊躇すべくもないので、宅を出た日は駕籠を雇い、雨を冒して讃岐街道の土屋という宿まで行って、そこから駕籠を返し、その夜はそこに一泊した。
 ここは山中の部落で、夜は物淋しく、殊更慣れぬ宿りであるから久しく眠に就けなかった。そこで常々好きな書物か何かあれば見たいと想って宿の者に訊ねると、『こんな物がある。』といって、古本を一、二冊出してくれた。その中に三体詩の零本があったから、枕頭の灯を挑《かか》げて、『行尽江南数十程、暁風残月入華清』などという詩を繰返し繰返し読んでいる中につい夢地に入った。今でも三体詩中の詩を読む度に土屋の宿の寂寞を想起するのである。
 その翌日は、一僕と共に私も草鞋掛で歩いて、やがて城下から十里ばかり隔った大頭宿に達した。そこから先はいよいよ他藩即ち小松領に入るので、一層心細い感を抱いた。行き行いて関の峠というへ達した。私は風邪を押していたので段々と疲労を覚えて困っていると、この日路傍に馬方がいて、『帰り馬で安いから乗《のっ》て下さい。』と勧めた。鞍を置いた馬には多少乗った事もあるが、荷馬に乗るは初てなので躊躇したが、僕も共に勧めるので遂にそれに乗った。ところが意外にも乗心地が好く、初めて駄馬に乗る味を知ったので、翌日から度々それを雇うて乗った。
 四日目の宿は和田浜といって、最早讃州へ入ったのであった。例の如く夕飯
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