来、僕は物質の窮乏などというものが、精神の牢獄《ろうごく》から解放された自由の日には、殆んど何の苦にもならないものだということも、自分の生活経験によって味得《みとく》した。そして五十歳を越えた今となっては、かつて知らなかった人生の深遠な情趣を知り、したがってまたその情趣を味《あじわ》いながら、静かに生きることの愉楽を体験した。それは父の死によって遺産を受け、初めて多少物質上の余裕を得たことにも原因するが、より本質上の原因は、むしろ精神上での余裕を得たことに基因する。若い時の生活が苦しいのは、物質上の不自由や行為の束縛にあるのでなく、実にその精神上の余裕がないからであった。青年の考える人生というものは、常に主観の情念にのみ固執しているところの、極《きわ》めて偏狭なモノマニア的のものである。彼らは何事かを思い詰めると、狂人の如くその一念に凝り固まり、理想に淫《いん》して現実を忘却してしまうために、遂《つい》には身の破綻《はたん》を招き、狂気か自殺かの絶対死地に追い詰められる。そこで詩人が歌うように、若き日には物皆悲しく、生きることそれ自体が、既に耐えがたい苦悩なのである。然《しか》るに中年
前へ
次へ
全15ページ中6ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
萩原 朔太郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング