さすべく、生命本能という因果なものを与えてくれた。働く時にも怠《なま》ける時にも、僕らは絶えずその苛虐《かぎゃく》の鞭《むち》に打たれているのだ。そこで仏陀《ぶっだ》やショペンハウエルの教える通り、宇宙は無明《むみょう》の闇夜《あんや》であって、無目的な生命意慾に駆られながら、無限に尽きない業《ごう》の連鎖を繰返しているところの、嘆きと煩悩《ぼんのう》の娑婆《しゃば》世界に外ならない。しかもその地獄から解脱するには、寂滅為楽《じゃくめついらく》の涅槃《ねはん》に入るより仕方がないのだ。南無阿弥陀仏《なむあみだぶつ》、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と、何遍唱えたところでピリヨードがない。
 しかし日本人という人種は、こうした仏教の根本原理を、遺伝的によく体得しているように思われる。彼らは『徒然草《つれづれぐさ》』の兼好《けんこう》法師に説かれないでも、僕位の年齢に達するまでには、出家悟道の大事を知って修業し、いつのまにか悟りを啓《ひら》いて、あきらめの好い人間に変ってしまう。トルストイやゲーテのように、中年期を過ぎてまでも、プラトニックな恋愛を憧憬《しょうけい》したり、モノマニアの理想に妄執
前へ 次へ
全15ページ中14ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
萩原 朔太郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング