日の情熱と悦《よろこ》びを、寂しく紛らすための遊戯に過ぎない。老いて何よりも悲しいことは、かつて青年時代に得られなかった、充分の自由と物質とを所有しながら、肉体の衰弱から、情慾の強烈な快楽に飽満できないという寂しさである。だがそれにも増してなお悲しいのは、真の純潔な恋愛を、異性から求められないということである。八十歳になったゲーテが、十八歳の娘に求婚して断られた時、彼はファウストの老博士を想念し、天を仰いで悪魔の来降を泣き呼ばった。名|遂《と》げ功成った一代の英雄や成功者が、老後に幾人の妾《めかけ》を持っても、おそらくその心境には、常に充《み》ちない蕭条《しょうじょう》たるものがあるであろう。百万石の殿様から恋をされ、富貴を捨てて若い貧乏の職人に情立てした江戸の遊女は、常識的の意味で悲劇人であった。だがそれを悲しみ怒って、愛する女を斬《き》った中年の殿様は、もっと哲学的の意味で悲劇人であった。
 神が人間のために、この世界を創《つく》ったという聖書の記事が、もし本当であるとすれば、人間は神に向って大いに不平を言う権利があると、アナトール・フランスが苦情を言ってる。彼の註文《ちゅうもん》することは、神が何故に人間を、昆虫のように生態させてくれなかったかと言うのである。昆虫の生態は、幼虫時代と、蛹虫《ようちゅう》時代と、蛾蝶《がちょう》時代の三期に分れる。幼虫時代は、醜い青虫の時代であり、成長のための準備として、食気《くいけ》一方に専念している。そして飽満の極に達した時、繭を作って蛹《さなぎ》となり、仮死の状態に入って昏睡《こんすい》する。だがその昏睡から醒《さ》めた時、彼は昔の青虫とは似もやらず、見ちがうばかりの美しい蝶と化して、花から花へ遊び歩き、春の麗《うら》らかな終日を、恋の戯れに狂い尽した末、歓楽の極に子孫を残して死ぬのである。人間がもしそうであったら、アナトール・フランスの言うように、たしかに理想的であったろう。青年時代に、我々は多くの修業と勉強をせねばならない。その時我々が青虫だったら、性慾の衝動に悩ませられることもなくひたすら成長のための準備として、知識や技術の習得に努めることができるのである。そして準備が完成した時、一先《ひとま》ず蛹となって昏睡し、再度新しく世に出た時には見ちがうばかりに美しい肉体と旺盛な性慾を持ったところの、水々しい青春の男に化して
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