女友達もなく、良家の娘と口を利《き》くようなチャンスは殆んどなかった。そんなはけ口のない情慾を紛らすために、僕らは牛肉屋へ行って酒をあおり、肉を手掴《てづか》みにして壁に投げつけたり、デタラメの詩吟を唄《うた》って、往来を大声で怒鳴り歩いたりした。しかもその頭脳の中には、詰めきれないほど残ってる試験の課題が、無制限の勉強を強《し》いているのである。そうした青年時代の生活は実にただ「陰惨《いんさん》」という一語によって尽される。「青春の歓楽」などということは、僕らはただ文字上の成句として、一種のイメージとしてしか知らなかった。
初めて僕が、多少人生というものの楽しさを知ったのは、中年期の四十歳になった頃からであった。その頃になってから、漸《ようや》く僕は僅《わず》かなりにも、多少原稿料による収入が出来、親父の手許《てもと》を離れて、とにかく妻と東京に一戸を構え、独立の生活をすることができた。その時以来、僕は初めて「自由」ということの意味を知った。人が自由ということを知る最初の経験は、子供が親の手を離れ、年長者の監督や拘束から解放されて、独立の生活をした最初の日である。同時にまたその時以来、僕は物質の窮乏などというものが、精神の牢獄《ろうごく》から解放された自由の日には、殆んど何の苦にもならないものだということも、自分の生活経験によって味得《みとく》した。そして五十歳を越えた今となっては、かつて知らなかった人生の深遠な情趣を知り、したがってまたその情趣を味《あじわ》いながら、静かに生きることの愉楽を体験した。それは父の死によって遺産を受け、初めて多少物質上の余裕を得たことにも原因するが、より本質上の原因は、むしろ精神上での余裕を得たことに基因する。若い時の生活が苦しいのは、物質上の不自由や行為の束縛にあるのでなく、実にその精神上の余裕がないからであった。青年の考える人生というものは、常に主観の情念にのみ固執しているところの、極《きわ》めて偏狭なモノマニア的のものである。彼らは何事かを思い詰めると、狂人の如くその一念に凝り固まり、理想に淫《いん》して現実を忘却してしまうために、遂《つい》には身の破綻《はたん》を招き、狂気か自殺かの絶対死地に追い詰められる。そこで詩人が歌うように、若き日には物皆悲しく、生きることそれ自体が、既に耐えがたい苦悩なのである。然《しか》るに中年
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