する義務がなく、社会に敬老思想のない外国では、老いて生活力を失った人々が、家庭からも社会からも全く廃人扱いをされてしまう。こうした寂しい老人や老婦人らが、養老院の一室で骨牌《カルタ》をしながら、互に慰め合ってる異国風景を、外国映画のスクリンで見る時ほど、西洋という国の悲しさと味気なさを、沁々《しみじみ》と思わせることはないのである。
要するに初め善《よ》きものは終が悪く、終善きものは初めが悪い。終始一貫して善い人生などというものは、西洋人の工夫した社会にもなく、東洋人の道徳する社会にもない。「年を取るてえと、旨《う》めえ物を食うより楽しみがないのに、歯が悪くなるから、だんだん旨めえ物がなくなっちまあ。こんなべら棒な話ってあるかい。」と、老優|市村羽左衛門《いちむらうざえもん》が憤慨したのも、西欧の文人フランスが嘆いたことも、所詮は人間のために、神が万物を造ったという聖書の記事を、人間のエゴイズムに前提した苦情にすぎない。本当のことを言うと、神は人間の幸不幸など初めから考えてはいないのである。万物の玄牝《げんぴん》たる自然の母は、一切の生物を生み放しにして、彼ら自らその個体と種族を保存さすべく、生命本能という因果なものを与えてくれた。働く時にも怠《なま》ける時にも、僕らは絶えずその苛虐《かぎゃく》の鞭《むち》に打たれているのだ。そこで仏陀《ぶっだ》やショペンハウエルの教える通り、宇宙は無明《むみょう》の闇夜《あんや》であって、無目的な生命意慾に駆られながら、無限に尽きない業《ごう》の連鎖を繰返しているところの、嘆きと煩悩《ぼんのう》の娑婆《しゃば》世界に外ならない。しかもその地獄から解脱するには、寂滅為楽《じゃくめついらく》の涅槃《ねはん》に入るより仕方がないのだ。南無阿弥陀仏《なむあみだぶつ》、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と、何遍唱えたところでピリヨードがない。
しかし日本人という人種は、こうした仏教の根本原理を、遺伝的によく体得しているように思われる。彼らは『徒然草《つれづれぐさ》』の兼好《けんこう》法師に説かれないでも、僕位の年齢に達するまでには、出家悟道の大事を知って修業し、いつのまにか悟りを啓《ひら》いて、あきらめの好い人間に変ってしまう。トルストイやゲーテのように、中年期を過ぎてまでも、プラトニックな恋愛を憧憬《しょうけい》したり、モノマニアの理想に妄執
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