なかった。それは僕にとって非常に辛く、客と両方への気兼ねのために、神経をひどく疲らせる仕末だった。僕は自然に友人を避け、孤独で暮すことを楽しむように、環境から躾けられてしまったのである。
こうした環境に育った僕は、家で来客と話すよりも、こっちから先方へ訪ねて行き、出先で話すことを気楽にして居る。それに僕は神経質で、非常に早く疲れ易い。気心の合った親友なら別であるが、そうでもない来客と話をすると、すぐに疲労が起ってきて、坐って居るのさえ苦しくなる。しかもそれを色々隠して、来客と話さねばならないのである。それがこっちから訪ねる場合は、何時でも随意に別れることが出来るのである。この「告別の権利」が、自分になくって来客の手にあるということほど、客に対して僕を腹立たしくすることはない。
一体に交際家の人間というものは、しゃべることそれ自身に興味をもってる人間である。こうした種類の人間は、絶えず何かしらしゃべってないと寂しいのだ。反対に孤独癖の人間は、黙って瞑想に耽ることを楽しみとする。西洋人と東洋人とを比較すると、概してみな我々東洋人は、非社交的な瞑想人種に出来上ってる。孤独癖ということは、
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