特殊語でもない筈である。
 先年、家族と川崎の大師へ参詣して、護摩を焚いてもらふ為に受付の僧に名を通じたところ、三人も並んで居る坊さんが、一人も朔の字を知らないのに驚いた。やつと端に居た中年の僧が、最後に僕の書いて見せた字を視て、初めて「アアさうか」と肯いた。そしてこんなことを言つた。此処へ参詣に来て受付る人は、一年に約七万人位あるけれども、かういふ字のついた名前の人はその中やつと二人位しか居ませんと。して見れば僕の名前は、よほど珍奇で類例の尠ないものにちがひない。どうして平凡どころではないのである。

 名は性を現はすかどうか知らないが、名が多少、人の運命を左右することは事実らしい。こんなことを言ふと、てきめんに迷信家扱ひをされ、読者から笑はれるのは承知して居るが、僕は姓名判断といふやうなものも、多少の根拠があるやうに考へてる。実例に照しても、僕の知人や親辺やで、名前を変へてから運がよくなり、急に病気が癒つたり、逆境から脱したりした人が尠なくない。それで僕も或る易者に観てもらつたら、朔太郎といふ僕の名前は、運勢上からあまり良くないさうである。なぜかと言ふと、朔といふ字は暦数の初めであ
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