きことであるかも知れない。

夢を支配する自由 阿片やモルヒネの麻醉が、人を樂しく恍惚とさせるのは、それが半醒半夢の状態を喚起させ、夢を自由に幻想することができるからである。眞に深く眠つてしまへば、人はもはや意識を失ひ、或る超自我の生命支配者がするところの、勝手な法則に夢を委ねなければならなくなる。しかもその夢は、たいてい願はしくないこと、思ひがけないこと、厭な樂しくもないことばかりである。しかも覺醒している間は、意識が現實の刺激に對して、一々の決定された法則によつて反應するため、一も眞の自由が得られず、人間の精神生活そのものが、物理的法則の支配下に屬してしまふ。精神の眞の自由――自分の意志によつて、自分の意識を支配することの自由――は、ただ夢と現實の境、半醒半夢の状態にだけある。阿片の醉夢の中では、人はその心に畫いてゐるところの、どんなヴィジョンをも幻想し得る。だがさうした毒物の麻醉を借りずに、もつと自然的《ノーマル》な仕方によつて、夢を自由にコントロールすることができるならば、人生はずつと幸福なものに變るであらう。その時人々は、現實に充たされない多くの欲望を、夢で自由に充たすことができる上に、意識をその決定する因果の法則から、自由に解放することによつて、あらゆる放縱不覊なイメージや美的意匠を、夢で藝術することができるのである。

夢と情緒 夢の中で見る事件や物象は、概して皆灰色に薄ぼんやりして、現實のやうにレアルでない。だがその反對に、夢の中で感ずる情緒は、現實のそれと比較にならないほど、ひどく生々《なまなま》としてレアリスチックに強烈である。特に惡夢などで經驗する、恐怖の情緒の物凄さは、到底普通の言葉で語られないほど、生々《なまなま》として血まみれに深刻である。(多くの物凄い怪談は、たいてい夢の恐怖を素材にしてゐる)現實の世界に於ては、たとへどんなに恐ろしい事件、死に直面するやうな事件に遭遇しても、決して夢のそれのやうには恐ろしくない。悲哀の情緒もまた、夢の中では特別に辛烈である。夢で愛人と別れたり、兩親と死別したり、それから特に、自分の避けがたい死や不運やを見たりする時ほど、眞に斷腸の悲しみといふ言葉を、文字通りに感じて歔欷することはない。夢で慈母を喪つた悲しみは、むしろ現實のそれに數倍して哀切である。現實の情緒は、悲哀にまれ、恐怖にまれ、理智の常識する白晝
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