は、一切のゾルレンが消えてしまふ。「お前は病気だ。肉体の非常危期に際してゐる。何よりも治療が第一。他は考へる必要がなく、また況やする必要がない。」と言ふ、特赦の休日があたへられてる。それの意識が、すべての義務感や焦燥感から、公に自己を解放してくれる。病気であるならば、人は仕事を休んで好いのだ。終日何も為ないでぶらぶらとし、太々しく臥てゐた所で、自分に対してやましくなく、却つて当然のことなのだ。無能であることも、廃人であることも、病気中ならば当然であり、少しも悲哀や恥辱にならない。
健康の時、私は絶えず退屈してゐる。為すべき仕事を控へて、しかもそれに手がつかないから退屈するのだ。退屈といふものは、人が考へるやうに呑気なものぢやない。反対に絶えず腹立たしく、苛々とし、やけくそ[#「やけくそ」に傍点]の鬱陶しい気分のものだ。だから人の言ふやうに、仏蘭西革命は退屈から起つたので、之れがいちばん社会の安寧に危険なものだ。そこで為政者は、人民の退屈感をまぎらすために、絶えず新しい事業を起し、内閣を更迭し、文化をひろめ、或いは種々のスポーツを奨励し、娯楽場や遊郭や公共浴場を設計する。
所が病気をしてから、この不断の退屈感が消えてしまつた。人は私に問うた。二ヶ月も病床にゐたら、どんなに退屈で困つたらうと。然るに私は反対だつた。病気中、私は少しも退屈を知らなかつた。天井にゐる一疋の蠅を見てゐるだけでも、または昼食の菜を想像してゐるだけでも、充分に一日をすごす興味があつた。健康の時、いつもあんなに自分を苦しめた退屈感が、病臥してから不思議にどこかへ行つてしまつた。この二ヶ月の間、私は毎日為すこともなく、朝から晩まで無為に横臥して居たにかかはらず、まるで退屈といふ感を知らずにしまつた。稀にそれが来ても、却つて心地よい昼寝の夢に睡眠をさそふばかりであつた。もし之れが、実の退屈といふものであるならば、退屈は願はしいものだと思つた。しかもこんな経験は、かつて健康の時に一度も無かつた。
この病気の経験から、私は「無為自然」といふ哲学の意味を知つた。私はエピクロスを知り、老子を知り、そして尚且つストイツクの本来の意味さへ解つた。すべて此等の宗教(?)は、人生に安心立命の道を教へる。そしてこの安心立命に至る手段は、要するに欲望を捨て、義務感を去り、生活に対する一切の責任感をあきらめてしまふこと
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