春に迫る落日の前
われら既にこれを見たり
いかんぞ人生を展開せざらむ。
今日の果敢なき憂愁を捨て
飛べよかし! 飛べよかし!
明るき四月の外光の中
嬉嬉たる群集の中に混りて
ふたり模擬飛行機の座席に乘れど
君の圓舞曲《わるつ》は遠くして
側へに思惟するものは寂しきなり。
乃木坂倶樂部
十二月また來れり。
なんぞこの冬の寒きや。
去年はアパートの五階に住み
荒漠たる洋室の中
壁に寢臺《べつと》を寄せてさびしく眠れり。
わが思惟するものは何ぞや
すでに人生の虚妄に疲れて
今も尚家畜の如くに飢ゑたるかな。
我れは何物をも喪失せず
また一切を失ひ盡せり。
いかなれば追はるる如く
歳暮の忙がしき街を憂ひ迷ひて
晝もなほ酒場の椅子に醉はむとするぞ。
虚空を翔け行く鳥の如く
情緒もまた久しき過去に消え去るべし。
十二月また來れり
なんぞこの冬の寒きや。
訪ふものは扉《どあ》を叩《の》つくし
われの懶惰を見て憐れみ去れども
石炭もなく煖爐もなく
白堊の荒漠たる洋室の中
我れひとり寢臺《べつと》に醒めて
白晝《ひる》もなほ熊の如くに眠れるなり。
殺せかし! 殺せかし!
いかなればかくも氣高く
優しく 麗はしく 香《かぐ》はしく
すべてを越えて君のみが匂ひたまふぞ。
我れは醜き獸《けもの》にして
いかでみ情の數にも足らむ。
もとより我れは奴隷なり 家畜なり
君がみ足の下に腹這ひ 犬の如くに仕へまつらむ。
願くは我れを蹈みつけ
侮辱し
唾《つば》を吐きかけ
また床の上に蹴り
きびしく苛責し
ああ 遂に――
わが息の根の止まる時までも。
我れはもとより家畜なり 奴隷なり
悲しき忍從に耐へむより
はや君の鞭の手をあげ殺せかし。
打ち殺せかし! 打ち殺せかし!
歸郷
[#ここから7字下げ]
昭和四年の冬、妻と離別し二兒を抱へて故郷に歸る
[#ここで字下げ終わり]
わが故郷に歸れる日
汽車は烈風の中を突き行けり。
ひとり車窓に目醒むれば
汽笛は闇に吠え叫び
火焔《ほのほ》は平野を明るくせり。
まだ上州の山は見えずや。
夜汽車の仄暗き車燈の影に
母なき子供等は眠り泣き
ひそかに皆わが憂愁を探《さぐ》れるなり。
鳴呼また都を逃れ來て
何所《いづこ》の家郷に行かむとするぞ。
過去は寂寥の谷に連なり
未來は絶望の岸に向へり。
砂礫《されき》のごとき人生かな!
われ既に勇氣おとろへ
暗憺として長《とこし》なへに生きるに倦みたり。
いかんぞ故郷に獨り歸り
さびしくまた利根川の岸に立たんや。
汽車は曠野を走り行き
自然の荒寥たる意志の彼岸に
人の憤怒《いきどほり》を烈しくせり。
波宜亭
少年の日は物に感ぜしや
われは波宜《はぎ》亭の二階によりて
かなしき情感の思ひにしづめり。
その亭の庭にも草木茂み
風ふき渡りてばうばうたれども
かのふるき待たれびとありやなしや。
いにしへの日には鉛筆もて
欄干《おばしま》にさへ記せし名なり。
[#ここから12字下げ]
――郷士望景詩――
[#ここで字下げ終わり]
家庭
古き家の中に坐りて
互に默《もだ》しつつ語り合へり。
仇敵に非ず
債鬼に非ず
「見よ! われは汝の妻
死ぬるとも尚離れざるべし。」
眼《め》は意地惡しく 復讐に燃え 憎憎しげに刺し貫ぬく。
古き家の中に坐りて
脱るべき術《すべ》もあらじかし。
珈琲店 醉月
坂を登らんとして渇きに耐へず
蹌踉として醉月の扉《どあ》を開けば
狼籍たる店の中より
破れしレコードは鳴り響き
場末の煤ぼけたる電氣の影に
貧しき酒瓶の列を立てたり。
ああ この暗愁も久しいかな!
我れまさに年老いて家郷なく
妻子離散して孤獨なり
いかんぞまた漂泊の悔を知らむ。
女等群がりて卓を圍み
我れの醉態を見て憫みしが
たちまち罵りて財布を奪ひ
殘りなく錢《ぜに》を數へて盜み去れり。
新年
新年來り
門松は白く光れり。
道路みな霜に凍りて
冬の凜烈たる寒氣の中
地球はその週暦を新たにするか。
われは尚悔いて恨みず
百|度《たび》もまた昨日の彈劾を新たにせむ。
いかなれば虚無の時空に
新しき辨證の非有を知らんや。
わが感情は飢ゑて叫び
わが生活は荒寥たる山野に住めり。
いかんぞ暦數の囘歸を知らむ
見よ! 人生は過失なり。
今日の思惟するものを斷絶して
百|度《たび》もなほ昨日の悔恨を新たにせん。
晩秋
汽車は高架を走り行き
思ひは陽《ひ》ざしの影をさまよふ。
靜かに心を顧みて
滿たさるなきに驚けり。
巷《ちまた》に秋の夕日散り
鋪道に車馬は行き交へども
わが人生は有りや無しや。
煤煙くもる裏街の
貧しき家の窓にさへ
斑黄葵《むらきあふひ》の花は咲きたり。
[#ここから12字下げ]
――朗吟のために――
[#ここで字下げ終わり]
品川沖觀艦
前へ
次へ
全5ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
萩原 朔太郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング