ちが苦しむだらう。我我もまた君等と同じく、絶望のすり切れた靴をはいて、生活《ライフ》の港港を漂泊してゐる。永遠に、永遠に、我我の家なき魂は凍えてゐるのだ。
 郵便局といふものは、港や停車場と同じやうに、人生の遠い旅情を思はすところの、魂の永遠ののすたるぢや[#「のすたるぢや」に傍点]だ。(『若草』1929年3月号)

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 墓

 これは墓である。蕭条たる風雨の中で、かなしく黙しながら、孤独に、永遠の土塊《つちくれ》が存在してゐる。
 何がこの下に、墓の下にあるのだらう。我我はそれを考へ得ない。おそらくは深い穴が、がらんどうに掘られてゐる。さうして僅《わず》かばかりの物質――人骨や、歯や、瓦《かわら》や――が、蟾蜍《ひきがえる》と一緒に同棲《どうせい》して居る。そこには何もない。何物の生命も、意識も、名誉も。またその名誉について感じ得るであらう存在もない。
 尚《な》ほしかしながら我我は、どうしてそんなに悲しく、墓の前を立ち去ることができないだらう。我我はいつでも、死後の「無」について信じてゐる。何物も残りはしない。我我の肉体は解体して、他の物質に変つて行く。思想も、神経も、感情も、そしてこの自我の意識する本体すらも、空無の中に消えてしまふ。どうして今日の常識が、あの古風な迷信――死後の生活――を信じよう。我我は死後を考へ、いつも風にやうに哄笑《こうしよう》するのみ!
 しかしながら尚ほ、どうしてそんなに悲しく、墓の前を立ち去ることができないだらう。我我は不運な芸術家で、あらゆる逆境に忍んで居る。我我は孤独に耐へて、ただ後世にまで残さるべき、死後の名誉を考へてゐる。ただそれのみを考へてゐる。けれどもああ、人が墓場の中に葬られて、どうして自分を意識し得るか。我我の一切は終つてしまふ。後世になつてみれば、墓場の上に花環を捧《ささ》げ、数万の人が自分の名作を讃《たた》へるだらう。ああしかし! だれがその時墓場の中で、自分の名誉を意識し得るか? 我我は生きねばならない。死後にも尚ほ且《か》つ、永遠に墓場の中で、生きて居なければならない[#「生きて居なければならない」に二重丸傍点]のだ。
 蕭条たる風雨の中で、さびしく永遠に黙しながら、無意味の土塊が
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