を禁壓した。そしてこの結果、我々の國々には、古來科學が勃興しなかつたのである。單にそればかりでない。文學や藝術でさへも、我々の物には空想力が缺乏し、眞のロマンチツクの要素に乏しい。たまたまさうでなかつたものは、儒教等の影響がすくないところの、別の時代や庶民階級から生れたのである。
所で今の新日本は、我等がそれを欲すると欲しないとにかかはらず、科學によつて西洋と對立し、發明を爭はなければならないのである。今の時代の教育者は、昔のやうに子供の夢を冷笑し、童話精神を殺戮してはならないのである。逆に彼等の爲すべきことは、子供の夢を涵養し、そのフアンタスチツクのドリームランドに、豐潤な肥料を注ぐことでなければならない。そしてその教育が、彼等を未來の大發明家にし、大科學者にする方法なのだ。もし果して今の子供が、さうした眞の童話精神を喪失し、フアンタジイの夢を持たなくなつてしまつたことから、却つてその種の物への冷笑的態度を示すならば、正に大いに憂ふべき教育上の問題である。肝心の認識は、さうした子供等の傾向が、彼等の知性能力の向上を語る證左でなくて、むしろその知性能力の頽廢を語る證左であるといふことである。つまり詳しく言へば、彼等は眞の「科學人」となつたのでなくして、實にはむしろ「小理智人」「小常識人」となつたのである。かつて菊池寛氏は某所に於て、今日の如き科學時代には、詩は衰滅の一路をたどるのみだと言つたが、この「科學時代」といふ言葉を、もし菊池氏の主觀に於て、夢を忘れた小常識人や、世渡り上手の小才智人のみが横行する時代、即ち要するに「小常識的俗物時代」といふ意味に解するならば、正にまちがひなく眞理である。さうした頽廢の社會に於ては、單に詩が衰滅するばかりではない、科學も哲學も藝術も、一切の文化が衰滅してしまふのである。
今日の日本の學校教育は、いたづらに子供を小常識人化し、小才智人化し、チンピラ小學生の侏儒を作ることを以て、究極の目的としてる如く思はれる。かかる教育は、文化の衰滅を招來するところの、憂ふべきデカダンスの教育ではあるけれども、斷じてその健全なる向上を計るものではないのである。
底本:「萩原朔太郎全集 第十一卷」筑摩書房
1977(昭和52)年8月25日初版第1刷発行
1987(昭和62)年8月10日補訂版1刷発行
初出:「文藝世紀 創刊號」
1939(昭和14)年9月号
入力:鈴木厚司
校正:土屋隆
2010年2月16日作成
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