荒寥の地方ばかりを歩いてゐよう。
年をとつた婦人のすがたは
家鴨《あひる》や鷄《にはとり》によく似てゐて
網膜の映るところに眞紅《しんく》の布《きれ》がひらひらする。
なんたるかなしげな黄昏だらう!
象のやうなものが群がつてゐて
郵便局の前をあちこちと彷徨してゐる。
「ああどこに 私の音づれの手紙を書かう!」


 佛陀
  或は 世界の謎

赭土《あかつち》の多い丘陵地方の
さびしい洞窟の中に眠つてゐるひとよ
君は貝でもない 骨でもない 物でもない。
さうして磯草の枯れた砂地に
ふるく錆びついた時計のやうでもないではないか。
ああ 君は「眞理」の影か 幽靈か
いくとせもいくとせもそこに坐つてゐる
ふしぎの魚のやうに生きてゐる木乃伊《みいら》よ。
このたへがたくさびしい荒野の涯で
海はかうかうと空に鳴り
大海嘯《おほつなみ》の遠く押しよせてくるひびきがきこえる。
君の耳はそれを聽くか?
久遠《くをん》のひと 佛陀よ!


 ある風景の内殼から

どこにまあ! この情慾は口を開いたら好いのだらう。
大|海龜《うみがめ》は山のやうに眠つてゐるし
古生代の海に近く
厚さ千貫目ほどもある ※[#「石+車」、第3水準1−89−5]※[#「石+渠」、第3水準1−89−12]《しやこ》の貝殼が眺望してゐる。
なんといふ鈍暗な日ざしだらう!
しぶきにけむれる岬岬の島かげから
ふしぎな病院船のかたちが現はれ
それが沈沒した錨の纜《ともづな》をずるずると曳いてゐるではないか。
ねえ! お孃さん
いつまで僕等は此處に坐り 此處の悲しい岩に竝んでゐるのでせう。
太陽は無限に遠く
光線のさしてくるところに ぼうぼうといふほら貝が鳴る。
お孃さん!
かうして寂しくぺんぎん鳥のやうにならんでゐると
愛も 肝臟も つらら[#「つらら」に傍点]になつてしまふやうだ。
やさしいお孃さん!
もう僕には希望《のぞみ》もなく 平和な生活《らいふ》の慰めもないのだよ。
あらゆることが僕を氣ちがひじみた憂鬱にかりたてる
へんに季節は轉轉して
もう春も李《すもも》もめちやくちやな妄想の網にこんがらかつた。
どうすれば好いのだらう お孃さん!
ぼくらはおそろしい孤獨の海邊で 大きな貝肉のやうにふるへてゐる。
そのうへ情慾の言ひやうもありはしないし
こんなにも切ない心がわからないの? お孃さん!


 輪※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]と樹木

輪※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]の暦をかぞへてみれば
わたしの過去は魚でもない 猫でもない 花でもない
さうして草木の祭祀に捧げる 器物《うつは》や瓦の類でもない
金でもなく 蟲でもなく 隕石でもなく 鹿でもない
ああ ただひろびろとしてゐる無限の「時」の哀傷よ。
わたしのはてない生涯《らいふ》を追うて
どこにこの因果の車を※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]して行かう!
とりとめもない意志の惱みが あとからあとからとやつてくるではないか。
なんたるあいせつの笛の音《ね》だらう
鬼のやうなものがゐて木の間で吹いてる。
まるでしかたのない夕暮れになつてしまつた
燈火《ともしび》をともして窓からみれば
青草むらの中にべらべら[#「べらべら」に傍点]と燃える提灯がある。
風もなく
星宿のめぐりもしづかに美しい夜《よる》ではないか。
ひつそりと魂の祕密をみれば
わたしの轉生はみじめな乞食で
星でもなく 犀でもなく 毛衣《けごろも》をきた聖人の類でもありはしない。
宇宙はくるくるとまはつてゐて
永世輪※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]のわびしい時刻がうかんでゐる。
さうしてべにがら[#「べにがら」に傍点]いろにぬられた恐怖の谷では
獸《けもの》のやうな榛《はん》の木が腕を突き出し
あるいはその根にいろいろな祭壇が乾《ひ》からびてる。
どういふ人間どもの妄想だらう!


 暦の亡魂

薄暮のさびしい部屋の中で
わたしのあうむ時計はこはれてしまつた。
感情のねぢは錆びて ぜんまい[#「ぜんまい」に傍点]もぐだらくに解けてしまつた。
こんな古ぼけた暦をみて
どうして宿命のめぐりあふ暦數をかぞへよう。
いつといふこともない
ぼろぼろになつた憂鬱の鞄をさげて
明朝《あした》は港の方へでも出かけて行かう。
さうして海岸のけむつた柳のかげで
首《くび》なし船のちらほらと往き通《か》ふ帆でもながめてゐよう
あるいは波止場の垣にもたれて
乞食共のする砂利場の賭博《ばくち》でもながめてゐよう。
どこへ行かうといふ國の船もなく
これといふ仕事や職業もありはしない。
まづしい黒毛の猫のやうに
よぼよぼとしてよろめきながら歩いてゐる。
さうして芥燒場《ごみやきば》の泥土《でいど》にぬりこめられた
このひとのやうなものは
忘れた暦の亡魂
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