民衆のふるい傳統は疊の上になやんでゐる。
ああこの厭やな天氣
日ざしの鈍い季節。

ぼくの感情を燃え爛すやうな構想は
ああもう どこにだつてありはしない。


 桃李の道
   老子の幻想から

聖人よ あなたの道を教へてくれ
繁華な村落はまだ遠く
鷄《とり》や犢《こうし》の聲さへも霞の中にきこえる。
聖人よ あなたの眞理をきかせてくれ。
杏の花のどんよりとした季節のころに
ああ私は家を出で なにの學問を學んできたか
むなしく青春はうしなはれて
戀も 名譽も 空想も みんな泥柳の牆《かき》に涸れてしまつた。
聖人よ
日は田舍の野路にまだ高く
村村の娘が唱ふ機歌《はたうた》の聲も遠くきこえる。
聖人よ どうして道を語らないか?
あなたは默し さうして桃や李やの咲いてる夢幻の郷《さと》で
ことばの解き得ぬ認識の玄義を追ふか。
ああ この道徳の人を知らない
晝頃になつて村に行き
あなたは農家の庖廚に坐るでせう。
さびしい路上の聖人よ
わたしは別れ もはや遠くあなたの沓音《くつおと》を聽かないだらう
悲しみのしのびがたい時でさへも
ああ 師よ! 私はまだ死なないでせう。
[#改ページ]

[#「海港之圖」の挿し絵]
 海港之圖

 港へ來た。マストのある風景と、浪を蹴つて走る蒸汽船と。

 どこへもう! 外の行くところもありはしない。
 はやく石垣のある波止場を曲り
 遠く沖にある帆船へ歸つて行かう。
 さうして忘却の錨をとき、記憶のだんだんと消えさる港を訪ねて行かう。
[#天から6字下げ]――まどろすの歌――
[#改ページ]


 風船乘りの夢

夏草のしげる叢《くさむら》から
ふはりふはりと天上さして昇りゆく風船よ
籠には舊暦の暦をのせ
はるか地球の子午線を越えて吹かれ行かうよ。
ばうばうとした虚無の中を
雲はさびしげにながれて行き
草地も見えず 記憶の時計もぜんまい[#「ぜんまい」に傍点]がとまつてしまつた。
どこをめあてに翔けるのだらう!
さうして酒瓶の底は空しくなり
醉ひどれの見る美麗な幻覺《まぼろし》も消えてしまつた。
しだいに下界の陸地をはなれ
愁ひや雲やに吹きながされて
知覺もおよばぬ眞空圈内へまぎれ行かうよ。
この瓦斯體もてふくらんだ氣球のやうに
ふしぎにさびしい宇宙のはてを
友だちもなく ふはりふはりと昇つて行かうよ。


 古風な博覽會

かなしく ぼんやりとした光線のさすところで
圓頂塔《どうむ》の上に圓頂塔《どうむ》が重なり
それが遠い山脈の方まで續いてゐるではないか。
なんたるさびしげな青空だらう。
透き通つた硝子張りの虚空の下で
あまたのふしぎなる建築が格鬪し
建築の腕と腕とが組み合つてゐる。
このしづかなる博覽會の景色の中を
かしこに遠く 正門を過ぎて人人の影は空にちらばふ
なんたる夢のやうな群集だらう。
そこでは文明のふしぎなる幻燈機械や
天體旅行の奇妙なる見世物をのぞき歩く
さうして西暦千八百十年頃の 佛國巴里市を見せるパノラマ館の裏口から
人の知らない祕密の拔穴「時」の胎内へもぐり込んだ
ああ この逃亡をだれが知るか?
圓頂塔《どうむ》の上に圓頂塔《どうむ》が重なり
無限にはるかなる地平の空で
日ざしは悲しげにただよつてゐる。


 まどろすの歌

愚かな海鳥のやうな姿《すがた》をして
瓦や敷石のごろごろとする 港の市街區を通つて行かう。
こはれた幌馬車が列をつくつて
むやみやたらに圓錐形の混雜がやつてくるではないか
家臺は家臺の上に積み重なつて
なんといふ人畜のきたなく混雜する往來だらう。
見れば大時計の古ぼけた指盤の向うで
冬のさびしい海景が泣いて居るではないか。
涙を路ばたの石にながしながら
私の辮髮を背中にたれて 支那人みたやうに歩いてゐよう。
かうした暗い光線はどこからくるのか
あるいは理髮師《とこや》や裁縫師《したてや》の軒に artist の招牌《かんばん》をかけ
野菜料理や木造旅館の貧しい出窓が傾いて居る。
どうしてこんな貧しい「時」の寫眞を映すのだらう。
どこへもう! 外の行くところさへありはしない。
はやく石垣のある波止場を曲り
遠く沖にある帆船へかへつて行かう。
さうして忘却の錨を解き 記録のだんだんと消えさる
港を訪ねて行かう。


 荒寥地方

散歩者のうろうろと歩いてゐる
十八世紀頃の物さびしい裏街の通りがあるではないか
青や赤や黄色の旗がびらびらして
むかしの出窓に鐵葉《ぶりき》の帽子が飾つてある。
どうしてこんな情感のふかい市街があるのだらう!
日時計の時刻はとまり
どこに買物をする店や市場もありはしない。
古い砲彈の碎片《かけ》などが掘り出されて
それが要塞區域の砂の中で まつくろに錆びついてゐたではないか。
どうすれば好いのか知らない
かうして人間どもの生活する
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