て日光が遠くにかがやいてゐる
けれども私はこの室内にひとりで坐つて
思ひをはるかなる櫻のはなの下によせ
野山にたはむれる青春の男女によせる
ああ なんといふよろこびが輝やいてゐることか
いちめんに枝をひろげた櫻の花の下で
わかい娘たちは踊ををどる
娘たちの白くみがいた踊の手足
しなやかにおよげる衣裳
ああ そこにもここにも どんなにうつくしい曲線がもつれあつてゐることか
花見のうたごゑは横笛のやうに長閑《のどか》で
かぎりなき憂鬱のひびきをもつてきこえる。
いま私の心は涙でぬぐはれ
閉ぢこめたる窓のほとりに力なくすすり泣く
ああこのひとつのまづしき心は なにものの生命《いのち》をもとめ
なにものの影をみつめて泣いてゐるのか
ただいちめんに酢えくされたる美しい世界のはてで
遠く花見の憂鬱なる横笛のひびきをきく。


 怠惰の暦

いくつかの季節はすぎ
もう憂鬱の櫻も白つぽく腐れてしまつた。
馬車はごろごろと遠くをはしり
海も 田舍も ひつそりとした空氣の中に眠つてゐる。
なんといふ怠惰な日だらう
運命はあとからあとからとかげつてゆき
さびしい病鬱は柳の葉かげにけむつてゐる。
もう暦もない 記憶もない
わたしは燕のやうに巣立ちをし さうしてふしぎな風景のはてを翔つてゆかう。
むかしの人よ 愛する猫よ
わたしはひとつの歌を知つてる
さうして遠い海草の焚けてる空から 爛れるやうな接吻《きす》を投げよう。
ああ このかなしい情熱の外 どんな言葉も知りはしない。


 閑雅な食慾

松林の中を歩いて
あかるい氣分の珈琲店《かふえ》をみた。
遠く市街を離れたところで
だれも訪づれてくるひとさへなく
林間の かくされた 追憶の 夢の中の珈琲店《かふえ》である
をとめは戀戀の羞をふくんで
あけぼののやうに爽快な 別製の皿を運んでくる仕組
私はゆつたりとふほふく[#「ふほふく」に傍点]を取つて
おむれつ ふらいの類を喰べた。
空には白い雲が浮んで
たいそう閑雅な食慾である。


 馬車の中で

馬車の中で
私はすやすやと眠つてしまつた。
きれいな婦人よ
私をゆり起してくださるな
明るい街燈の巷《ちまた》をはしり
すずしい緑蔭の田舍をすぎ
いつしか海の匂ひも行手にちかくそよいでゐる。
ああ蹄《ひづめ》の音もかつかつとして
私はうつつにうつつを追ふ。
きれいな婦人よ
旅館の花ざかりなる軒に
前へ 次へ
全28ページ中10ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
萩原 朔太郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング