は夢の記憶をたどらうとする
夢はあはれにさびしい秋の夕べの物語
水のほとりにしづみゆく落日と
しぜんに腐りゆく古き空家にかんするかなしい物語。

夢をみながら わたしは幼な兒のやうに泣いてゐた
たよりのない幼な兒の魂が
空家の庭に生える草むらの中で しめつぽいひきがへるのやうに泣いてゐた。
もつともせつない幼な兒の感情が
とほい水邊のうすらあかりを戀するやうに思はれた
ながいながい時間のあひだ わたしは夢をみて泣いてゐたやうだ。

あたらしい座敷のなかで 蝶が翼《はね》をひろげてゐる
白い あつぼつたい 紙のやうな翼《はね》をふるはしてゐる。


 腕のある寢臺

綺麗なびらうどで飾られたひとつの寢臺
ふつくりとしてあつたかい寢臺
ああ あこがれ こがれいくたびか夢にまで見た寢臺
私の求めてゐたただひとつの寢臺
この寢臺の上に寢るときはむつくりとしてあつたかい
この寢臺はふたつのびらうどの腕をもつて私を抱く
そこにはたのしい愛の言葉がある
あらゆる生活《らいふ》のよろこびをもつたその大きな胸の上に
私はすつぽりと疲れたからだを投げかける
ああこの寢臺の上にはじめて寢るときの悦びはどんなであらう
そのよろこびはだれも知らない祕密のよろこび
さかんに強い力をもつてひろがりゆく生命《いのち》のよろこびだ。
みよ ひとつの魂はその上にすすりなき
ひとつの魂はその上に合掌するまでにいたる
ああかくのごとき大いなる愛憐の寢臺はどこにあるか
それによつて惱めるものは慰められ 求めるものはあたへられ
みなその心は子供のやうにすやすやと眠る
ああ このひとつの寢臺 あこがれもとめ夢にみるひとつの寢臺
ああこの幻《まぼろし》の寢臺はどこにあるか。


 青空に飛び行く

かれは感情に飢ゑてゐる。
かれは風に帆をあげて行く舟のやうなものだ
かれを追ひかけるな
かれにちかづいて媚をおくるな
かれを走らしめろ 遠く白い浪のしぶきの上にまで。
ああ かれのかへつてゆくところに健康がある。
まつ白な 大きな幸福の寢床がある。
私をはなれて住むときには
かれにはなんの煩らひがあらう!
私は私でここに止つてゐよう
まづしい女の子のやうに 海岸に出で貝でも拾つてゐよう
ねぢくれた松の木の幹でも眺めてゐよう
さうして灰色の砂丘に坐つてゐると
私は私のちひさな幸福に涙がながれる。
ああ かれをして遠く遠く
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