複雜した社會に住んでゐる。我我は一人にして詩人と音樂の作曲家とを兼ねることができない。我我は、我我の投影する旋律を知つてゐる、そは一種の氣分として、耳に聽えない音樂として感知される。けれども我我の音樂的無能は、之れを音の形式に再現することができない。そしてその故に、我我は詩人であつて音樂家でないのである。即ち我我の仕事は、この感知されたる旋律を詩の言葉それ自身のリズムに彫みつけることにある。如何にしてか? ここに我我の自由詩を見よ! 自由詩の表現は實に之れである。
 自由詩にあつては、音樂が單なる拍節によつて語られない。拍節は音樂の骨格にすぎないだらう。さうでなく、我我は音樂のより部分的なるリズム全體、即ち旋律と和聲とをそつくりそのまま表現しようとする。そしてこの目的のためには、言葉のあらゆる特性が利用されねばならぬ。第一に先づ言葉の音韻的效果が使用される。しかもそれは定律詩の場合の如く、單に拍節上の目的から、平仄を合せたり、同韻を押したり、語數を調べたりするのでない。我我の目的は、それとはもつと遙かに複雜なリズムを彈奏するにある。しかし單に音韻ばかりでは、到底この奇蹟的な仕事を完全に
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