性が、即ち所謂「音韻」である。過去の詩のリズムは、すべて皆この音韻によつて構成された。勿論、今日の自由詩に於ても、音韻はリズムの最も重要なる一大要素であるが、しかも我等の言ふリズムは、必しも此の一面の要素にのみ制約されない。なぜならばそこには、音韻以外、尚他に言葉の「氣分としての韻」があるべきだ。たとへば日本語の「太陽」と言ふ言葉は、音韻上から言つて一聯四音格であるが、かうした語格の特種性を除いて考へても、尚他にこの言葉獨特の情趣がある。その證據は、これを他の同じ語義で同じ一聯四音格の言葉「日輪」や「てんたう」に比較する時、各の語の間に於ける著しい氣分の差を感ずることによつて明白である。實際日本語の詩歌に於て「太陽が空に輝やく」と「日輪が天に輝やく」では全然表現の效果が同じでない。されば我等の自由詩に於て、よし全然音韻上のリズムを發見し得ないとしても、尚そこにこの種の隱れたる氣分の韻律が内在し得ないといふ道理はない。しかしながら、かくの如き色調韻律は、決して最近自由詩の詩人が發見したのではない。勿論それは昔から、すべての定律詩人によつて普通に認められて居た色調、即ち語の縹渺する特種の心
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