ではないだらう。
鏡 戀愛する「自我」の主體についての覺え書。戀愛が主觀の幻像であり、自我の錯覺だといふこと。
虚數の虎 「機因《チヤンス》」といふ現象は、客觀的には決定されたもの(因果律の計算する必然的な數字)であるけれども、主觀的には全く氣まぐれな運であり、偶然のもの[#「偶然のもの」に傍点◎]にすぎない。賭博の興味は、その氣まぐれな運をひいて、偶然の骰子《さいころ》をふることから、必然の決定されてる結果を、虚數の上に賭け試みることの冒險にある。すべての博徒等は、その生涯を惜しげもなく、かかる冒險に賭けて悔いないところの、烈しい情熱を持つてゐる。しかしながらその情熱は、何の實數的所得もないところの、單なる虚數の浪費にすぎない。怒れる虎が、空洞に咆えるやうなものである。
自然の中で 「耳」といふ題で、私は他の別のところに、この短かい詩を書き改へた。その全文は
山の中腹に耳がある。
何れにしても同じく、表現しようとしたことは、永劫の時間に渡つて、無限の空間に實在してゐるところの、大自然の巨人のやうな靜寂さを描いたのである。老子の所謂「谷神不死」「玄ノ玄、牝ノ
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