く由もなく、昔作つた詩の情趣を、再度イメーヂすることが出來なくなつた。
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物みなは歳日《としひ》と共に亡び行く――。
ひとり來りてさまよへば
流れも速き廣瀬川
何にせかれて止《とど》むべき。
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――廣瀬河畔を逍遙しつつ――
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附録
散文詩自註
前書
詩の註釋といふことは、原則的に言へば蛇足にすぎない。なぜなら詩の本當の意味といふものは、言葉の音韻や表象以外に存在しない。そして此等のものは、感覺によつて直觀的に感受する外、説明の仕方がないからである。しかし或る種の詩には、特殊の必要からして、註解が求められる場合もある。たとへば我が萬葉集の歌の如き古典の詩歌。ダンテの神曲やニイチエのツアラトストラの如き思想詩には、古來幾多の註釋書が刊行されてる。この前者の場合は、古典の死語が今の讀者に解らない爲であり、この後の場合は、詩の内容してゐる深遠の哲學が、思想上の解説を要するからである。しかし原則的に言へば、此等の場合にもやはり註釋は蛇足である。なぜなら萬葉集の歌は、萬葉の歌言葉を離れて鑑賞することがで
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