「あら? 車が通るの。お父さん!」
 地平線の遠い向うへ、浪のやうな山脈が續いて居た。馬子に曳かれた一つの車が、遠く悲しく、峠を越えて行くのであつた。子供はそれを追ひ馳けて行つた。そして荷車の後にすがつて、遠く地平線の盡きる向うへ、山脈を越えて行くのであつた。
「待て! 何處《どこ》へ行く。何處《どこ》へ行く。おおい。」
 私は聲の限りに呼び叫んだ。だが子供は、私の方を見向きもせずに、見知らぬ馬子と話をしながら、遠く、遠く、漂泊の旅に行く巡禮みたいに、峠を越えて行つてしまつた。

「齒が痛い。痛いよう!」
 私が夢から目醒めた時に、側《そば》の小さなベツトの中で、子供がうつつのやうに泣き續けて居た。
「齒が痛い。痛いよう! 痛いよう! 罪人《つみびと》と人に呼ばれ、十字架にかかり給へる、救ひ主《ぬし》イエス・キリスト……齒が痛い。痛いよう!」


 戸

 すべての戸は、二重の空間で仕切られてゐる。
 戸の内側には子供が居り、戸の外側には宿命が居る。――これがメーテルリンクによつて取り扱はれた、詩劇タンタジールの死の主題であつた。も一つ付け加へて言ふならば、戸の内側には洋燈が灯り、
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