《はぎ》亭も、既に今は跡方もなく、公園の一部になつてしまつた。その公園すらも、昔は赤城牧場の分地であつて、多くの牛が飼はれて居た。
 ひとり友の群を離れて、クロバアの茂る校庭に寢轉びながら、青空を行く小鳥の影を眺めつつ

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艶めく情熱に惱みたり
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 と歌つた中學校も、今では他に移轉して廢校となり、殘骸のやうな姿を曝して居る。私の中學に居た日は悲しかつた。落第。忠告。鐵拳制裁。絶えまなき教師の叱責。父母の嗟嘆。そして灼きつくやうな苦しい性慾。手淫。妄想。血塗られた惱みの日課! 嗚呼しかしその日の記憶も荒廢した。むしろ何物も亡びるが好い。

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わが草木《さうもく》とならん日に
たれかは知らむ敗亡の
歴史を墓に刻むべき。
われは飢ゑたりとこしへに
過失を人も許せかし。
過失を父も許せかし。
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          ――父の墓に詣でて――

 父の墓前に立ちて、私の思ふことはこれよりなかつた。その父の墓も、多くの故郷の人人の遺骸と共に、町裏の狹苦しい寺の庭で、侘しく窮屈げに立ち竝んでる。私の生涯は過失であつた。だがその「過失の記憶」さへも、やがて此所にある萬象と共に、虚無の墓の中に消え去るだらう。父よ。わが不幸を許せかし!

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たちまち遠景を汽車の走りて
我れの心境は動騷せり。
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 と歌つた二子山の附近には、移轉した中學校が新しく建ち、昔の侘しい面影もなく、景象が全く一新した。かつては蒲公英《たんぽぽ》の莖を噛みながら、ひとり物思ひに耽つて徘徊した野川の畔に、今も尚白い菫《すみれ》が咲くだらうか。そして古き日の娘たちが、今でも尚故郷の家に居るだらうか。

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われこの新道の交路に立てど
さびしき四方《よも》の地平をきはめず。
暗鬱なる日かな
天日《てんじつ》家竝の軒に低くして
林の雜木まばらに伐られたり。
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 と歌つた小出《こいで》の林は、その頃から既に伐採されて、楢や櫟の木が無慘に伐られ、白日の下に生生《なまなま》しい切株を見せて居たが、今では全く開拓されて、市外の遊園地に通ずる自動車の道路となつてる。昔は學校を嫌ひ、辨當を持つて家を出ながら、ひそかにこの林に來て、終日鳥の鳴聲を聞きながら、少年の愁ひを悲しんでゐた私であつた。今では自動車が荷物を載せて、私の過去の記憶の上を、勇ましくタンクのやうに驀進して行く。

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兵士の行軍の後に捨てられ
破れたる軍靴《ぐんくわ》のごとくに
汝は路傍に渇けるかな。
天日《てんじつ》の下に口をあけ
汝の過去を哄笑せよ。
汝の歴史を捨て去れかし。
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          ――昔の小出新道にて――

 利根川は昔ながら流れて居るが、雲雀の巣を拾つた河原の砂原は、原形もなく變つてしまつて、ただ一面の桑畑になつてしまつた。

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此所に長き橋の架したるは
かのさびしき惣社の村より
直として前橋の町に通ずるらん。
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 と歌つた大渡新橋も、また近年の水害で流失されてしまつた。ただ前橋監獄だけが、新たに刑務所と改名して、かつてあつた昔のやうに、長い煉瓦の塀をノスタルヂアに投影しながら、寒い上州の北風に震へて居た。だが

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監獄裏の林に入れば
囀鳥高きにしば鳴けり
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 と歌つた裏の林は、概ね皆伐採されて、囀鳥の聲を聞く由もなく、昔作つた詩の情趣を、再度イメーヂすることが出來なくなつた。

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物みなは歳日《としひ》と共に亡び行く――。
ひとり來りてさまよへば
流れも速き廣瀬川
何にせかれて止《とど》むべき。
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          ――廣瀬河畔を逍遙しつつ――
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附録

散文詩自註
  前書

 詩の註釋といふことは、原則的に言へば蛇足にすぎない。なぜなら詩の本當の意味といふものは、言葉の音韻や表象以外に存在しない。そして此等のものは、感覺によつて直觀的に感受する外、説明の仕方がないからである。しかし或る種の詩には、特殊の必要からして、註解が求められる場合もある。たとへば我が萬葉集の歌の如き古典の詩歌。ダンテの神曲やニイチエのツアラトストラの如き思想詩には、古來幾多の註釋書が刊行されてる。この前者の場合は、古典の死語が今の讀者に解らない爲であり、この後の場合は、詩の内容してゐる深遠の哲學が、思想上の解説を要するからである。しかし原則的に言へば、此等の場合にもやはり註釋は蛇足である。なぜなら萬葉集の歌は、萬葉の歌言葉を離れて鑑賞することがで
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