かつて私は、精神のことを考へてゐた。夢みる一つの意志。モラルの體熱。考へる葦のをののき。無限への思慕。エロスヘの切ない祈祷。そして、ああそれが「精神」といふ名で呼ばれた、私の失はれた追憶[#「失はれた追憶」に傍点◎]だつた。かつて私は、肉體のことを考へて居た。物質と細胞とで組織され、食慾し、生殖し、不斷にそれの解體を強ひるところの、無機物に對して抗爭しながら、悲壯に惱んで生き長らへ、貝のやうに呼吸してゐる悲しい物を。肉體! ああそれも私に遠く、過去の追憶にならうとしてゐる。私は老い、肉慾することの熱を無くした。墓と、石と、蟾蜍《ひきがへる》とが、地下で私を待つてるのだ。
ホールの庭には桐の木が生え、落葉が地面に散らばつて居た。その板塀で圍まれた庭の彼方、倉庫の竝ぶ空地の前を、黒い人影が通つて行く。空には煤煙が微かに浮び、子供の群集する遠い聲が、夢のやうに聞えて來る。廣いがらん[#「がらん」に傍点]とした廣間《ホール》の隅で、小鳥が時時囀つて居た。ヱビス橋の側に近く、晩秋の日の午後三時。コンクリートの白つぽい床、所在のない食卓《テーブル》、脚の細い椅子の數數。
ああ神よ! もう取返す術《すべ》もない。私は一切を失ひ盡した。けれどもただ、ああ何といふ樂しさだらう。私はそれを信じたいのだ。私が生き、そして「有る」ことを信じたいのだ。永久に一つの「無」が、自分に有ることを信じたいのだ。神よ! それを信ぜしめよ。私の空洞《うつろ》な最後の日に。
今や、かくして私は、過去に何物をも喪失せず、現に何物をも失はなかつた。私は喪心者のやうに空を見ながら、自分の幸福に滿足して、今日も昨日も、ひとりで閑雅な麥酒《ビール》を飲んでる。虚無よ! 雲よ! 人生よ。
貸家札
熱帶地方の砂漠の中で、一疋の獅子が晝寢をして居た。肢體をできるだけ長く延ばして、さもだるさうに疲れきつて。すべての猛獸の習性として、胃の中の餌物が完全に消化するまで、おそらく彼はそのポーズで永遠に眠りつづけて居るのだらう。赤道直下の白晝《まひる》。風もなく音もない。萬象の死に絶えた沈默《しじま》の時。
その時、不意に獅子が眠から目をさました。そして耳をそば立て、起き上り、緊張した目付をして、用心深く、機敏に襲撃の姿勢をとつた。どこかの遠い地平の影に、彼は餌物を見つけたのだ。空氣が動き、萬象の沈默《しじま》が破れた。
一人の旅行者――ヘルメツト帽を被り、白い洋服をきた人間が、この光景を何所かで見て居た。彼は一言の口も利かず、默つて砂丘の上に生えてる、椰子の木の方へ歩いて行つた。その椰子の木には、ずつと前から、長い時間の風雨に曝され、一枚の古い木札が釘づけてあつた。
(貸家アリ。瓦斯、水道付。日當リヨシ。)
ヘルメツトを被つた男は、默つてその木札をはがし、ポケツトに入れ、すたすたと歩きながら、地平線の方へ消えてしまつた。
この手に限るよ
目が醒めてから考へれば、實に馬鹿馬鹿しくつまらぬことが、夢の中では勿體らしく、さも重大の眞理や發見のやうに思はれるのである。私はかつて夢の中で、數人の友だちと一緒に、町の或る小綺麗な喫茶店に入つた。そこの給仕女に一人の悧發さうな顏をした、たいそう愛くるしい少女が居た。どうにかして、皆はそのメツチエンと懇意になり、自分に手なづけようと焦燥した。そこで私が、一つのすばらしいことを思ひついた。少女の見て居る前で、私は角砂糖の一つを壺から出した。それから充分に落着いて、さも勿體らしく、意味ありげの手付をして、それを紅茶の中へそつと落した。
熱い煮えたつた紅茶の中で、見る見る砂糖は解けて行つた。そして小さな細かい氣泡が、茶碗の表面に浮びあがり、やがて周圍の邊《へり》に寄り集つた。その時私はまた一つの角砂糖を壺から出した。そして前と同じやうに、氣取つた勿體らしい手付をしながら、そつと茶碗へ落し込んだ。(その時私は、いかに自分の手際が鮮やかで、巴里の伊達者がやる以上に、スマートで上品な擧動に適つたかを、自分で意識して得意でゐた。)茶碗の底から、再度また氣泡が浮び上つた。そして暫らく、眞中にかたまり合つて踊りながら、さつと別れて茶碗の邊《へり》に吸ひついて行つた。それは丁度、よく訓練された團體遊戲《マスゲーム》が、號令によつて、行動するやうに見えた。
「どうだ。すばらしいだらう!」
と私が言つた。
「まあ。素敵ね!」
と、じつと見て居たその少女が、感嘆おく能はざる調子で言つた。
「これ、本當の藝術だわ。まあ素敵ね。貴方。何て名前の方なの?」
そして私の顏を見詰め、絶對無上の尊敬と愛慕をこめて、その長い睫毛をしばだたいた。是非また來てくれと懇望した。私にしばしば逢つて、いろいろ話が聞きたいからとも言つた。
私はすつかり得意になつ
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