もまた各人が全體としての雰圍氣(群集の雰圍氣)を構成して居る。何といふ無關心な、伸伸とした、樂しい忘却をもつた雰圍氣だらう。
 黄昏《たそがれ》になつて、私は公園の椅子に坐つて居た。幾組もの若い男女が、互に腕を組み合せながら、私の坐つてる前を通つて行つた。どの組の戀人たちも、嬉しく樂しさうに話をして居た。そして互にまた、他の組の戀人たちを眺め合ひ、批判し合ひ、それの美しい伴奏から、自分等の室にひろがるところの、戀の樂しい音樂を二重にした。
 一組の戀人が、ふと通りかかつて、私の椅子の側に腰をおろした。二人は熱心に、笑ひながら、羞かみながら嬉しさうに囁いて居た。それから立ち上り、手をつないで行つてしまつた。始めから彼等は、私の方を見向きもせず、私の存在さへも、全く認識しないやうであつた。
 都會生活とは、一つの共同椅子の上で、全く別別の人間が別別のことを考へながら、互に何の交渉もなく、一つの同じ空を見てゐる生活――群集としての生活――なのである。その同じ都會の空は、あの宿なしのルンペンや、無職者や、何處へ行くといふあてもない人間やが、てんでに自分のことを考へながら、ぼんやり竝んで坐つてる、淺草公園のベンチの上にもひろがつて居て、灯ともし頃の都會の情趣を、無限に侘しげに見せるのである。
 げに都會の生活の自由さは、群集の中に居る自由さである。群集は一人一人の單位であつて、しかも全體としての綜合した意志をもつてる。だれも私の生活に交渉せず、私の自由を束縛しない。しかも全體の動く意志の中で、私がまた物を考へ、爲し、味ひ、人人と共に樂しんで居る。心のいたく疲れた人、重い惱みに苦しむ人、わけても孤獨を寂しむ人、孤獨を愛する人によつて[#初出の『四季』第四號・昭和十年二月號では「孤獨を愛する人にとつて」となっている]、群集こそは心の家郷、愛と慰安の住家である。ボードレエルと共に、私もまた一つのさびしい歌を唄はう。――都會は私の戀人。群集は私の家郷。ああ何處までも、何處までも、都會の空を徘徊しながら、群集と共に歩いて行かう。浪の彼方は地平に消える、群集の中を流れて行かう。


 橋

 すべての橋は、一つの建築意匠しか持つてゐない。時間を空間の上に架け、或る夢幻的な一つの觀念《イデア》を、現實的に辨證することの熱意である。
 橋とは――夢を架空した數學である。


 詩人の死ぬや悲し

 ある日の芥川龍之介が、救ひのない絶望に沈みながら、死の暗黒と生の無意義について私に語つた。それは語るのでなく、むしろ訴へてゐるのであつた。
「でも君は、後世に殘るべき著作を書いてる。その上にも高い名聲がある。」
 ふと、彼を慰めるつもりで言つた私の言葉が、不幸な友を逆に刺戟し、眞劍になつて怒らせてしまつた。あの小心で、羞かみやで、いつもストイツクに感情を隱す男が、その時顏色を變へて烈しく言つた。
「著作? 名聲? そんなものが何になる!」
 獨逸のある瘋癲病院で、妹に看護されながら暮して居た、晩年の寂しいニイチエが、或る日ふと空を見ながら、狂氣の頭腦に追憶をたぐつて言つた。――おれも昔は、少しばかりの善い本を書いた! と。
 あの傲岸不遜のニイチエ。自ら稱して「人類史以來の天才」と傲語したニイチエが、これはまた何と悲しく、痛痛しさの眼に沁みる言葉であらう。側に泣きぬれた妹が、兄を慰める爲に言つたであらう言葉は、おそらく私が、前に自殺した友に語つた言葉であつたらう。そしてニイチエの答へた言葉が、同じやうにまた、空洞《うつろ》な悲しいものであつたらう。
「そんなものが何になる! そんなものが何になる!」
 ところが一方の世界には、彼等と人種のちがつた人が住んでる。トラフアルガルの海戰で重傷を負つたネルソンが、軍醫や部下の幕僚たちに圍まれながら、死にのぞんで言つた言葉は有名である。「余は祖國に對する義務を果たした。」と。ビスマルクや、ヒンデンブルグや、伊藤博文や、東郷大將やの人人が、おそらくはまた死の床で、靜かに過去を懷想しながら、自分の心に向つて言つたであらう。
「余は、余の爲すべきすべてを盡した。」と。そして安らかに微笑しながら、心に滿足して死んで行つた。
 それ故に諺は言ふ。鳥の死ぬや悲し、人の死ぬや善しと。だが我我の側の地球に於ては、それが逆に韻律され、アクセントの強い言葉で、もつと惱み深く言ひ換へられる。
 ――人の死ぬや善し。詩人の死ぬや悲し!


 主よ。休息をあたへ給へ!

 行く所に用ゐられず、飢ゑた獸のやうに零落して、支那の曠野を漂泊して居た孔子が、或る時河のほとりに立つて言つた。
「行くものはかくの如きか。晝夜をわかたず。」
 流れる水の悲しさは、休息が無いといふことである。夜《よる》、萬象が沈默し、人も、鳥も、木も、草も、すべてが深い眠りに
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