、何時《いつ》、何所《どこ》で、果して何事をするのだらう。地球を越えて、惑星の世界にでも行かなかつたら!

 田舍の時計  田舍の憂鬱は、無限の單調といふことである。或る露西亞の作家は、農夫の生活を蟻に譬へた。單に勤勉だといふ意味ではない。數千年、もしくは數萬年もの長い間、彼等の先祖が暮したやうに、その子孫もその子孫も、そのまた孫の子孫たちも、永遠に同じ生活を反覆してるといふことなのである。――田舍に於ては、すべての家家の時計が動いて居ない。

 球轉がし  人生のことは、すべて「機因《チヤンス》」が決定する。ところで機因《チヤンス》は、宇宙の因果律が構成するところの、複雜微妙極みなきプロバビリチイの數學から割り出される。機因《チヤンス》は「宿命」である。それは人間の意志の力で、どうすることもできない業《カルマ》なのだ。だがそれにもかかはらず、人人は尚「意志」を信じてゐる。意志の力と自由によつて、宇宙が自分に都合よく、プロバビリチイの骰子《さいころ》の目が、思ひ通りに出ることを信じてゐる。
「よし、私の力を試してみよう」と、壓しつけられた曇天の日に、悲觀の沈みきつたどん底からさへも、人人は尚|健氣《けなげ》に立ち上る。だが意志の無力が實證され、救ひなき絶望に陷入つた時、人人はそこに「奇蹟」を見る。そしてハムレツトのやうに、哲人ホレーシオの言葉を思ひ出すのである。――この世の中には、人智の及びがたい樣樣の不思議がある!

 鯉幟を見て  日本の鯉幟りは、多くの外國人の言ふ通り、世界に於ける最も珍しい、そして最も美しい景物の一つである。なぜならそれは、世の親たちの子供に對する、すべてのエゴイズムの願望の、最も露骨にして勇敢な表現であるからである。家家の屋根を越えて、青空に高くひるがへる魚の像《かたち》は、子供の將來に於ける立身出世と、富貴と健康と、名譽と榮達と、とりわけ男らしい勇氣を表象して祝福されてゐる。だが風のない曇天の日に、そのだらり[#「だらり」に傍点]とぶらさがつた紙の魚の、息苦しく喘ぐ姿を見る時、世の親たちが、どんな不吉な暗い感じを、子供の將來について豫感するかを思ふのである。それらの親たちは、長い間人生を經驗して、樣樣の苦勞をし盡して來た。すべての世の中のことは、何一つ自分の自由にならないこと、人生は涙と苦惱の地獄であること、個人の意志の力が、運命の前に全
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