如く浮んでゐるのは、寂しくもまた悲しい限りの思ひであつた。その上にもまた、特殊な館の構造から、入口の梯子を昇降する人の足音が、周圍の壁に反響して、遠雷を聽くやうに出來てるので、あたかも畫面の中の大砲が、遠くで鳴つてるやうに聽えるのである。
だがパノラマ館に入つた人が、何人も決して忘られないのは、油繪具で描いた空の青色である。それが現實の世界に穹窿してゐる、現實の青空であることを、初めに人人が錯覺することから、その油繪具のワニスの匂ひと、非現實的に美しい青色とが、この世の外の海市のやうに、阿片の夢に見る空のやうに、妖しい夢魔の幻覺を呼び起すのである。
AULD LANG SYNE! 人は新しく生きるために、絶えず告別せねばならない。すべての古き親しき知己から、環境から、思想から、習慣から。
告別することの悦びは、過去を忘却することの悦びである。「永久に忘れないで」と、波止場に見送る人人は言ふ。「永久に忘れはしない」と、甲板《デツキ》に見送られる人人が言ふ。だが兩方とも、意識の潛在する心の影では、忘却されることの悦びを知つてゐるのだ。それ故にこそ、あの Auld lang syne(螢の光)の旋律が、古き事物や舊知に對する告別の悲しみを奏しないで、逆にその麗らかな船出に於ける、忘却の悦びを奏するのである。
荒寥たる地方での會話 現代の日本は、正に「荒寥たる地方」である。古き傳統の文化は廢つて、新しき事物はまだ興らない。我等の時代の日本人は、見る物もなく、聞く物もなく、色もなく匂ひもなく、趣味もなく風情もないところの、滿目蕭條たる文化の廢跡に坐してゐるのである。だがしかし、我等の時代のインテリゼンスは、その蕭條たる廢跡の中に、過渡期のユニイクな文化を眺め、津津として盡きない興味をおぼえるのである。洋服を着て疊に坐り、アパートに住んで味噌汁を啜る僕等の姿は、明治初年の畫家が描いた文明開化の圖と同じく、後世の人人に永くエキゾチツクの奇觀をあたへ、清趣深く珍重されるにちがひないのだ。
寂寥の川邊 支那の太公望の故事による。
地球を跳躍して 詩人は常に無能者ではない。だが彼等の悲しみは、現實世界の俗務の中に、興味の對象を見出すことが出來ないのである。それ故に主觀者としての彼等は、常に心ひそかに思ひ驕り、自己の大いに爲すある有能を信じてゐる。だが彼等は
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