きないし、ニイチエの思想詩は、ツアラトストラの美しい詩語と韻律からのみ、直接に感受することができるからだ。ただしかしかうした類の思想詩は、純正詩である抒情詩に比して、比較的註釋し易く、またそれだけ註釋の意義があるわけである。なぜならこの類の詩では、その寓意する思想上の觀念性が、言葉の感性的要素以上に、内容の實質となつてるからだ。しかしこの種の觀念詩でも、作者の主觀上に於ては、やはり抒情詩と同じく、純なポエヂイとして心象されてることは勿論である。つまりその思想内容の觀念物が、主觀の藝術情操によつて淳化され、高い律動表現の浪を呼び起すほど、實際に詩美化され、リリツク化されてゐるのである。(もしさうでなかつたら、普通の觀念的散文〈感想、隨筆の類〉にすぎない。)本書に納めた私の散文詩も、勿論さうした種類の文學である。故にこの「自註」は、實には詩の註解と言ふべきものでなく、かうした若干の詩が生れるに至る迄の、作者の準備した心のノートを、讀者に公開したやうなものである。だからこの附録は、正當には「散文詩自註」と言ふよりは、むしろ「散文詩覺え書」といふ方が當つてゐるのだ。
 文學の作家が、その作品の準備された「覺え書」を公開するのは、奇術師が手品の種を見せるやうなものだ。それは或る讀者にとつて、興味を減殺することになるかも知れないが、或る他の讀者にとつては、別の意味で興味を二重にするであらう。「詩の評釋は、それ自身がまた詩であり、詩でなければならぬ。」とノヴアリスが言つてるが、この私の覺え書的自註の中にも、本文とは獨立して、それ自身にまた一個の文學的エツセイとなつてる者があるかも知れぬ。とにかくこの附録は、本文の詩とは無關係に、また全然無關係でもなく、不即不離の地位にある文章として、讀者の一讀を乞ひたいのである。

 パノラマ館にて  幼年時代の追懷詩である。明治何年頃か覺えないが、私のごく幼ない頃、上野にパノラマ館があつた。今の科學博物館がある近所で、その高い屋根の上には、赤地に白く PANORAMA と書いた旗が、葉櫻の陰に翩翻《へんぽん》としてゐた。私は此所で、南北戰爭とワータルローのパノラマを見た。狹く暗く、トンネルのやうになつてる梯子段を登つて行くと、急に明るい廣闊とした望樓に出た。不思議なことには、そのパノラマ館の家の中に、戸外で見ると同じやうな青空が、無限の穹窿とな
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