若い娘たちが苦しむだらう。我我もまた君等と同じく、絶望のすり切れた靴をはいて、生活《ライフ》の港港を漂泊してゐる。永遠に、永遠に、我我の家なき魂は凍えてゐるのだ。
郵便局といふものは、港や停車場と同じやうに、人生の遠い旅情を思はすところの、魂の永遠ののすたるぢや[#「のすたるぢや」に傍点]だ。
航海の歌
南風のふく日、椰子の葉のそよぐ島をはなれて、遠く私の船は海洋の沖へ帆ばしつて行つた。浪はきらきらと日にかがやき、美麗な魚が舷側にをどつて居た。
この船の甲板《でつき》の上に、私はいろいろの動物を飼つてゐた。猫や、孔雀や、鶯や、はつか鼠や、豹や、駱駝や、獅子やを乘せ、さうして私の航海の日和がつづいた。私は甲板の籐椅子に寐ころび、さうして夢見心地のする葉蘭の影に、いつも香氣の高いまにら[#「まにら」に傍点]煙草をくはへて居た。ああ、いまそこに幻想の港を見る。白い雲の浮んでゐる、美麗にして寂しげな植民地の港を見る。
かくの如くにして、私は航海の朝を歌ふのである。孤獨な思想家の VISION に浮ぶ、あの[#「あの」に傍点◎]うれしき朝の船出を語るのである。ああ、だれがそれを聽くか?
海
海を越えて、人人は向うに「ある」ことを信じてゐる。島が、陸が、新世界が。しかしながら海は、一の廣茫とした眺めにすぎない。無限に、つかみどころがなく、單調で飽きつぽい景色を見る。
海の印象から、人人は早い疲勞を感じてしまふ。浪が引き、また寄せてくる反復から、人生の退屈な日課を思ひ出す。そして日向の砂丘に寢ころびながら、海を見てゐる心の隅に、ある空漠たる、不滿の苛だたしさを感じてくる。
海は、人生の疲勞を反映する。希望や、空想や、旅情やが、浪を越えて行くのではなく、空間の無限における地平線の切斷から、限りなく單調になり、想像の棲むべき山影を消してしまふ。海には空想のひだがなく、見渡す限り、平板で、白晝《まひる》の太陽が及ぶ限り、その「現實」を照らしてゐる。海を見る心は空漠として味氣がない。しかしながら物憂き悲哀が、ふだんの浪音のやうに迫つてくる。
海を越えて、人人は向うにあることを信じてゐる。島が、陸が、新世界が。けれども、ああ! もし海に來て見れば、海は我我の疲勞を反映する。過去の長き、厭はしき、無意味な生活の旅の疲れが、一時に漠然と現はれてくる。人人はげつそ
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