その遠い北極圈の氷の上で、ぼんやりと海豹のやうに坐つて居たい。永遠に、永遠に、自分を忘れて、思惟のほの暗い海に浮ぶ、一つの侘しい幻象を眺めて居たいのです。
斷橋
夜道を走る汽車まで、一つの赤い燈火を示せよ。今そこに危險がある。斷橋! 斷橋! ああ悲鳴は風をつんざく。だれがそれを知るか。精神は闇の曠野をひた走る。急行し、急行し、急行し、彼の悲劇の終驛へと。
運命への忍辱
とはいへ環境の闇を突破すべき、どんな力がそこにあるか。齒がみてこらへよ。こらへよ。こらへよ。
寂寥の川邊
古驛の、柳のある川の岸で、かれは何を釣らうとするのか。やがて生活の薄暮がくるまで、そんなにも長い間、針のない釣竿で……。「否」とその支那人が答へた。「魚の美しく走るを眺めよ、水の靜かに行くを眺めよ。いかに君はこの靜謐を好まないか。この風景の聰明な情趣を。むしろ私は、終日釣り得ない[#「釣り得ない」に傍点◎]ことを希望してゐる。されば日當り好い寂寥の岸邊に坐して、私のどんな環境をも亂すなかれ。」
船室から
嵐、嵐、浪、浪、大浪、大浪、大浪。傾むく地平線、上昇する地平線、落ちくる地平線。がちやがちや、がちやがちや。上甲板へ、上甲板へ。鎖《チエン》を卷け、鎖《チエン》を卷け。突進する、突進する水夫ら。船室の窓、窓、窓、窓。傾むく地平線、上昇する地平線。鎖《チエン》、鎖《チエン》、鎖《チエン》。風、風、風。水、水、水。船窓《ハツチ》を閉めろ。船窓《ハツチ》を閉めろ。右舷へ、左舷へ。浪、浪、浪。ほひゆーる。ほひゆーる。ほひゆーる。
田舍の時計
田舍に於ては、すべての人人が先祖と共に生活してゐる。老人も、若者も、家婦も、子供も、すべての家族が同じ藁屋根の下に居て、祖先の煤黒い位牌を飾つた、古びた佛壇の前で臥起してゐる。
さうした農家の裏山には、小高い冬枯れの墓丘があつて、彼等の家族の長い歴史が、あまたの白骨と共に眠つてゐる。やがて生きてゐる家族たちも、またその同じ墓地に葬られ、昔の曾祖母や祖父と共に、しづかな單調な夢を見るであらう。
田舍に於ては、郷黨のすべてが縁者であり、系圖の由緒ある血をひいてゐる。道に逢ふ人も、田畑に見る人も、隣家に住む老人夫妻も、遠きまたは近き血統で、互にすべての村人が縁邊する親戚であり、昔からつながる叔父や伯母の一族である。そこで
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