せよ。きけ、どんな悦ばしい告別が、どんな氣の利いた挨拶《あいさつ》が、彼の見送りの人人にまで語られるか。今や一つの精神は、海を越えて軟風の沖へ出帆する。されば健在であれ、親しき、懷かしき、また敵意ある、敵意なき、正に私から忘られようとしてゐる[#「忘られようとしてゐる」に傍点◎]知己の人人よ。私は遠く行き、もはや君らと何の煩はしい交渉もないであらう。そして君らはまた、正に君らの陸地から立去らうとする帆影にまで、あのほつとした氣輕さの平和――すべての見送人が感じ得るところの、あの氣の輕輕とした幸福――を感ずるであらう。もはやそこには、何の鬱陶しい天氣もなく、來るべき航海日和の、いかに晴晴として麗らかに知覺せらるることぞ。おお今、碇をあげよ水夫ども。おーるぼーと。……聽け! あの[#「あの」に傍点◎]音樂は起る。見送る人、見送られる人の感情にまで、さばかり涙ぐましい「忘却の悦び」を感じさせるところの、あの古風なるスコツトランドの旋律は! Should auld acquaintance be forgot, and  never brought to mind! Should auld acquaintance be forgot, and days of auld lang syne!


 木偶芝居

 あの怪人物が手にもつ一つの巨大な棒を見よ。それが高くふりあげられ、力を込めてまつすぐに打ちおろす時、あれらの家屋は破壞され、めちやくちや[#「めちやくちや」に傍点]になり、警官の如きもの、隊長の如きもの、ビア樽の如きもの、横倒しにされ、その遠心力でもつて舞臺の圈外へ吹つとばされる。そこで青白い音樂のリズムが起り、すばらしい巨きな月が舞臺の空へ昇つてくる。ぐんぐんぐんぐんと上の方へ、とめどもなく高く昇る。おおその時、その時、その破壞された家の下から、どんな一つの物悲しい言葉が聽えてくるか――一つの怪奇な木偶《にんぎやう》の靈魂は、かれの細長い舌を以てすら[#「舌を以てすら」に傍点◎]「幽冥に於ける思想」を語るであらう。喇叭を吹くやうなバスの調子で。


 極光地方から

 海豹《あざらし》のやうに、極光の見える氷の上で、ぼんやりと「自分を忘れて」坐つてゐたい。そこに時劫がすぎ去つて行く。晝夜のない極光地方の、いつも暮れ方のやうな光線が、鈍く悲しげに幽滅するところ。ああ
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