である。小説家的聡明さ(即ち常識)では、決してどんな詩も作れはしない。否さうした頭脳の中には、詩情そのものが宿らないのである。だからその種の人々には、小説家の書いた文章は解るけれ共、詩人の書いた文章は解らないのだ。そして此所に詩人といふのは、もちろん僕ばかりでなく、一般の詩人についても言ふのである。
 かうしたことによつて、僕は常識の価値が甚だ疑はしくなつてきた。常識的聡明は、結果して常識の程度しか理解できない。だから詩人の仲間にとつて「常識ですら」解るものが、しばしば彼等にとつては常識ですら解らない。してみれば常識的聡明といふこと(今の小説家等が唯一の得意とするのはそれである。)は、必しも僕等にとつて恐ろしいものでない。否むしろ低級視さるべき、愚劣な馬鹿馬鹿しいものである。僕は「常識のメンタルテスト」文藝春秋子から悪口されて、始めて常識の実価を知つた。すくなくとも今後の僕等は、常識及び常識的聡明者に対して、詩人らしき内気な恥らひと屈辱とを捨て、もつと大胆に、彼等を侮蔑してかかるであらう。



底本:「日本の名随筆 別巻76・常識」作品社
   1997(平成9)年6月25日第1刷発
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