所が偶然にも、最近この文藝春秋の記事からして、僕の常識に対する見解に大なる動揺が生じて来た。すくなくとも僕が、従来「常識の価値」を高く買ひかぶりすぎたことに気がついて来た。と言ふわけは、最近この雑誌の文藝春秋子が、二回に亘つて書いた僕の毒舌を読んだからである。もちろん僕は、雑誌の六号記事がゴシツプ的に書く漫罵なので、神経質に抗議する男ではない。此所に言はうとするのはそれでなく、小説家的常識の価値(それを小説家は常に誇つてゐる)が、案外くだらぬ安物にすぎないことを、それによつて初めて知つたからである。
 文藝春秋の六号子は、前に僕の書いた芥川龍之介[#「芥川龍之介」に丸傍点]君の追悼文で、僕を無理解に悪口し、第二の島田清次郎[#「島田清次郎」に丸傍点]にたとへてゐる。春秋子の理解によれば、僕のあの文(改造所載芥川龍之介[#「芥川龍之介」に丸傍点]の死)は、芥川[#「芥川」に丸傍点]君に対する冒涜であり、自己尊大であり、故人を恥かしめたものであるさうだ。それを読んだ時、僕は世にも意外な読者があるものだと思つて、自ら事の意外に呆然とした。僕は芥川[#「芥川」に丸傍点]君を詩人でない――詩を熱
前へ 次へ
全7ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
萩原 朔太郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング