苦痛にたへずして旅に出でんとす。
ああこの古びたる鞄をさげてよろめけども
われは瘠犬のごとくして憫れむ人もあらじや。
いま日は構外の野景に高く
農夫らの鋤に蒲公英の莖は刈られ倒されたり。
われひとり寂しき歩廊《ほうむ》の上に立てば
ああはるかなる所よりして
かの海のごとく轟ろき 感情の軋《きし》りつつ來るを知れり。


 大渡橋

ここに長き橋の架したるは
かのさびしき惣社の村より 直《ちよく》として前橋の町に通ずるならん。
われここを渡りて荒寥たる情緒の過ぐるを知れり
往くものは荷物を積み車に馬を曳きたり
あわただしき自轉車かな
われこの長き橋を渡るときに
薄暮の飢ゑたる感情は苦しくせり。
ああ故郷にありてゆかず
鹽のごとくにしみる憂患の痛みをつくせり
すでに孤獨の中に老いんとす
いかなれば今日の烈しき痛恨の怒りを語らん
いまわがまづしき書物を破り
過ぎゆく利根川の水にいつさいのものを捨てんとす。
われは狼のごとく飢ゑたり
しきりに欄干《らんかん》にすがりて齒を噛めども
せんかたなしや 涙のごときもの溢れ出で
頬《ほ》につたひ流れてやまず
ああ我れはもと卑陋なり。
往《ゆ》くものは荷物を積みて馬を曳き
このすべて寒き日の 平野の空は暮れんとす。


 廣瀬川

廣瀬川白く流れたり
時さればみな幻想は消えゆかん。
われの生涯《らいふ》を釣らんとして
過去の日川邊に糸をたれしが
ああかの幸福は遠きにすぎさり
ちひさき魚は眼《め》にもとまらず。


 利根の松原

日曜日の晝
わが愉快なる諧謔《かいぎやく》は草にあふれたり。
芽はまだ萌えざれども
少年の情緒は赤く木の間を焚《や》き
友等みな異性のあたたかき腕をおもへるなり。
ああこの追憶の古き林にきて
ひとり蒼天の高きに眺め入らんとす
いづこぞ憂愁ににたるものきて
ひそかにわれの背中を觸れゆく日かな。
いま風景は秋晩くすでに枯れたり
われは燒石を口にあてて
しきりにこの熱する 唾《つばき》のごときものをのまんとす。


 公園の椅子

人氣なき公園の椅子にもたれて
われの思ふことはけふもまた烈しきなり。
いかなれば故郷《こきやう》のひとのわれに辛《つら》く
かなしきすもも[#「すもも」に傍線]の核《たね》を噛まむとするぞ。
遠き越後の山に雪の光りて
麥もまたひとの怒りにふるへをののくか。
われを嘲けりわらふ聲は野山にみ
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