セイ・トルストイ(大トルストイは私とは共鳴がない)かういふ人たちが好きである。かういふ人たちの作品は私に多くの『慰安』をあたへる。私が訴へようとして居ること、私が苦しんでゐること、私が捉まうとして居ること、さういふことを此の人たちは、私が自分で言ふよりはずつと鮮明にそして完全に言つてくれる。此の人たちは皆、私と同じ病院に住んで、私と同じ疾患の苦痛のために泣き叫んでゐる人たちである。
もちろん、私は大ドストヱフスキイ先生もかうした仲間の一人として發見した。併し先生にはどこかみんな[#「みんな」に傍点]とちがつたところがあるやうな氣がした。みんな[#「みんな」に傍点]はよくしやべり[#「しやべり」に傍点]そしてよく騷ぐ(苦痛のためであるとはいへ)。然るに先生だけはいつも默つて何かあるもの[#「あるもの」に傍点]を考へて居るやうに思はれた。それが先生を一種の得體の分らない怪物のやうにさへ思はせた。今にして思へば、その得體の分らないあるもの[#「あるもの」に傍点]こそ、實に先生の限り知られぬ愛であつたのだ。
先生はどうにかしてみんな[#「みんな」に傍点]を救つてやりたいと考へて居られたのだ
前へ
次へ
全67ページ中34ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
萩原 朔太郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング